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1人の女性が、3人の男性と共同生活している。 実話をもとにした映画である。 先進国では近代が終わろうとする今、遠い前近代を想像するのは難しくなっている。 この映画には、前近代の女性像や男性像が、しっかり描かれている。 映画の作りも単純で、話も単純だが、多くのことを考えさせる。
ブラジルの北東部の田舎のまた田舎、赤茶けた乾燥地帯での話し。 妊娠中のダルレーニ(ヘジーナ・カセー)は、母親を残して街へ出る。 それから3年後、子供を連れて、母親の葬式に戻ってくる。 そんな彼女に、中年のオジアス(リマ・ドゥアルチ)がプロポーズし、結婚が成立する。 2人の家に、オジアスの従兄弟ゼジーニョ(ステーニオ・ガルシア)が転がり込む。 ダルレーニはゼジーニョの優しさにひかれ、肉体関係ができる。 やがて生まれた子供は、ゼジーニョそっくりだった。 ダルレーニ、オジアス、ゼジーニョと2人子供という生活が続くが、定期的な現金収入は、彼女のサトウキビ畑での稼ぎだけ。 彼女は将来を考えて、長男を農場主に引き渡す。 そして、サトウキビ畑での、安い労働に励んでいた。 そこへ若い男シロ(ルイス・カルロス・ヴァスコンセロス)が流れてくる。 彼女は、たちまちシロに恋をして、肉体関係ができる。 と同時に、彼を自分たちに家に連れてくる。 その後、シロとダルレーニの駆け落ち計画が発覚したことから、反対にシロを家族にしてしまえと言うことになる。 やがて生まれた子供はシロそっくりで、実子のいない戸主オジアスは、血縁のない3人の子供の戸籍上の父親になる。 実話ではこうした生活が、すでに10年以上続いていると言うことだが、もちろん1+3の生活が順調に始まったのではないだろう。 さまざまな葛藤があったはずである。 しかし、現代社会なら、不道徳と咎められるこの関係も、孤立した農業社会では不可能ではない。 この寒村は、貧しいので他人の目を気にするより、欲望に忠実に生きることができる。 頑固者だが子種のないオジアスは、戸主として一家に君臨する。 オジアスは山羊を飼って生計を立てているが、ダルレーニを働かせても平然として、ハンモックに横になっている。 従兄弟のゼジーニョは、食事を作ったり家事を切り回す。 ダルレーニはサトウキビ畑で、肉体労働に従事する。 この関係が上手くかみ合っている。 シロの登場は、むしろ付け足しのようにも思う。 女性1人に男性2人ですら、近代社会では非常識な家族である。 けれども、家族がどう出来上がっているかは、当人たちが納得すればいいことだった。 近代に入って、家族制度が国家の掌握するところとなり、対なる男女の関係を正規の夫婦と認めた。 その結果、それ以外の関係は、抹殺されてしまったにすぎない。 男女の関係は、精神的な感情から肉体関係がうまれ、そして共同生活へと進んだはずだが、やがて共同生活が始まる過程が転倒させられる。 つまり、固定的な男女関係を想定した上で、肉体関係を許すようになった。 惚れあう感情→肉体関係→共同体の認知→共同生活といった過程が、共同体の認知→共同生活→肉体関係→惚れあう感情(?)へと、逆転させられていったのが近代だった。 我が国でも、その事情はまったく同じで、明治の初めに戸籍が整備され始めたとき、婚外子をめぐる処遇で大きな混乱があった。 前近代の人たちは、できた子供を必ずしも血縁の親元に固定して考えなかった。 だから、他の家族のもとへと、戸籍上の登録することも可能だった。 元気なうちは自分のことは自分でできる。 しかし、誰にでも老いはやってくる。 老いたときに自分だけでは生活ができない。 子供こそ自分の老年期の生活保障だった。 子供は必要不可欠である。 とすれば、血縁の子供かどうかより、子供がいるかどうかの方が優先する。 もちろん子供を産む人間は、必要不可欠である。 裕福な近代社会では、社会保障が発達し、子供がいなくても老後の心配はない。 子供は自分の分身として、愛玩の対象に純化できる。 子供の価値が、限りなくゼロに近づくと同時に、女性の地位が低下し始めた。 ダルレーニは厳しい肉体労働に従事し、オジアスはハンモックに寝そべっていたが、彼女が子供を生めるがゆえに、彼女の存在はオジアスに拮抗できた。 農耕社会では子供を産む能力は、絶対のものだった。 生産労働においては、一般的に男性が女性に優位する。 そのために前近代は、男性優位の社会である。 しかし、子供を産む女性は、2番手の労働者であることと子供を産むことの、合わせ技で男性に拮抗し得た。 前近代では、女性は決して劣者ではない。 しかし、近代になって専業主婦が登場し、女性が生産労働から離れたので、女性は存在価値が低下していった。 歴史を調べてみれば、女性の名前はほとんど表に現れない。 だから現代から見ると、前近代は女性が劣位に置かれたように見える。 しかし、文字の価値が低かった前近代では、生活が文字の記録として残らない。 実体は女性が大きな顔していても、記録に見える女性は、支配された者ばかりである。 「庄屋日記に見る江戸の世相と暮らし」をみても、支配の末に連なる庄屋は男性だが、その妻は気楽な暮らしをしている。 この映画でも、血縁のない3人の子供を、オジアスは自分の子供として登録する。 時間がたった後世の人はオジアスの子供が、3人いたとしか見ないだろう。 ゼジーニョとシロは自分の血縁の子供をもったが、オジアスは戸籍上の子供を3人持った。 実体より文字で残された形式が、後世からは真実と見られてしまう。 おそらくダルレーニは子供の母としてしか、名前が残らないだろう。 しかし、生きている最中は、彼女の存在は決して小さくない。 むしろ、男たちは彼女を中心に回っている。 前近代のむき出しの欲望支配が否定され、観念が支配する近代に入って、男尊女卑は生活のすべてに蔓延した。 近代で女性の地位は低下した。女性は核家族へと押し込められ、性的な欲望を否定された。 しかし、フェミニズムはそれに反旗を翻し、近代の終了と同時に、核家族を解体させ始めた。 欲望が支えた大家族が、単家族の複数同居という形で、後近代にはよみがえる。 人間が本当に自由になるためには、近代の通過は不可避だった。 混浴の否定も、夜這いの否定も、若者宿の否定も、すべて不可避だった。 社会的な制度から、今やっと解放されて自由になれる。 もちろん、肉体労働という縛りのない後近代社会では、人間関係の難しさは言語を絶するものがある。 まったくの自由というのは、何を基準に生きればいいのか判らない。 そのため、精神を病む現象は、多発する。 しかし、基準を求める彷徨こそ、自由の証なのである。 ブラジル生まれながら、先進国で教育を受けたら、この映画はできなかったであろう。 先進国で教育を受けると、途上国の文化を劣等と感じるようになる。 夜這いを劣等と感じさせるのが、先進国の教育成果である。 途上国の人特有の、欲望の素直な肯定が、この映画を貫いている。 欲望を肯定することに対して、先進国への後ろめたさがない。 この監督は、地付きのブラジル人で、おそらく映像に関しては、職人的な教育を受けてきたのではあるまいか。 それにしても、現代とは何と刺激の多い社会だろうか。 ダルレーニの生きているところには、トランジスター・ラジオをがあるだけ。 厳しい毎日のなかで、祭りをどんなに待ちこがれたか。 そして、男女間のセックスは、極上の慰安であり娯楽だったことが判る。 厳しい現実と引換に、前近代の人たちのほうが、生の息吹は手応えをもって実感していただろう。 前近代と後近代の通底を感じさせた。 原題は「Eu tu eles」(私、あなた、彼ら)で、「私の小さな楽園」とは縁もゆかりもない。 そこにしか生きる選択肢をもたない人に、そこが楽園だというのは、近代人の奢りであり余りに非礼である。 この邦題を付けた人は、前近代の生活がどれほど過酷か、知るよしもないだろう。 「エヴァとステファンとすてきな家族」と、好対照を見せながら、前近代と後近代の家族の現象形態は、限りなく近いと知る。(2003.12.26) 2000年ブラジル映画 |
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