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 エヴァとステファンとすてきな家族
ルーカス・ムーディソン監督

 スウェーデンの映画だと思っていると、フランコが死んで喜ぶ場面から始まるので、最初はスペインの映画かと戸惑う。
1968年のパリ5月革命に続き、先進国では大規模な精神変革が進行していた。
もちろん我が国でも、既存の価値を見直す運動が高まっていた。
元気な若者たちは、何とか新しい価値観を見いだそうと、必死になっていた。
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 スウェーデンではその運動も、本当に過激にしかも根底的だったのだろう。
この映画を見ると、運動の成果が、今日へ繋がっていることが判る。
しかし、我が国では1970年頃から今日まで、ほとんど精神的な進歩がなかったように感じる。

 20世紀の後半は大きな変革があったのだが、我が国ではその変革が、未だに理解されていないようにも感じさせられた。
ヒッピーと呼ばれる運動は、本当に偉大な運動だった。
今から見るとそれがよく分かる。
1975年、ストックホルム郊外のどこかに、「Together」というコンミューンがあった。

 何人かの成人男女と、その子供たちが共同生活をしていた。
テレビを拒否し、ベジタリアンを実践し、性関係も半ば自由だった。
そこへ、夫の暴力を逃れたエリザベート(lisa lindgren)が、子供のエヴァ(emma samuelsson)とステファン(sam kessel )を連れて、転がり込んでくる。


 彼女たちの家は、男女の対と子供という、ごく普通の核家族だった。
だから、コンミューンが子供たちに与えた衝撃は大きかった。
2人の子供は、コンミューンの生活に慣れない。
コンミューンでは資本主義を否定し、核家族を離れ自由な人間関係を指向する。

 クリスマスも、コカコーラも、固定的な人間関係も、すべて否定した。
それらは、既存の体制が生み出したものであり、新たな人間には不要である。
大人たちは、観念で生きることができるが、子供は欲望に生きる。
肉も食べたいし、おもちゃも欲しい。
そうした自然な欲望と、大人たちの観念がぶつかり、様々な出来事が発生する。
しかし、子供たちはやがてコンミューンの生活を受け入れ、むしろ馴染んでいく。

 この映画を見ていると、あの時代は本当に真面目だった、と思う。
若者たちは、正しいと信じたことを、そのまま実践しようとしていた。
コンミューンのリーダー的なヨーラン(gustav hammarsten )は、次々と現れるメンバーたちの希望を、なるべく受け入れようとする。
しかし、自由への欲望には、内在的な制約がある。
1人の自由は必ずしも他人の自由を保障しない。

 アンナ(jessica liedberg )は下着を付けないことが気持ちいいと、パンツをはかないから陰毛が丸見えである。
下着を付けない自由を主張する。ラッセ(ola norell)は陰毛が気になると抗議する。
男性がやったら大変だと、ラッセも抗議してパンツを脱いでみせる。
男性器は前に飛び出しているので、パンツをはかないと、丸見えで不自然である。
また、音楽の趣味は各人各様で、子供が寝るから音量を下げろと言うが、気にしないアンナ。

 アンナとラッセは関係を解消したばかりだが、テト(axel zuber )という子供がいる。
テトとは、ベトナムのテト攻勢にちなんで、付けられた名前である。
男性から離れたアンナは、ゲイに目覚め始める。
そして、男性を相手にしなかったラッセも、クラウス(shanti roney)に迫られてゲイへと変身する。
この時代以降、人間関係は大きく広がった。
人間関係は愛情が支えるので、同性同士も許容範囲に入ってきた。


 マルクス主義にいかれたエリック(olle sarri)は、レナ(anja lundkvist )を読書会に誘う。
レナはパートナーのヨーランに、エリックとのセックスの承諾を求める。
当時は、他人の性的関係を拘束するのは、多少なりとも後ろめたかった。
そのため、ヨーランはOKせざるを得なかった。
レナは、エリックとベッドをともにすると、ヨーランとでは味わえない快感を体験する。
そして、大きなよがり声をだす。
それを隣室で聞かされるヨーランだが、嫉妬心はじっと押さえようとする。

 コンミューン的生活と、普通の生活が対比されながら、もちろん映画はコンミューンのほうを支持している。
当時主張されたマルクス主義や民族主義、そして社会主義は、その後ほとんど崩壊した。
しかし、エリザベートが染まっていったフェミニズムだけは、大きくしっかりと定着していく。
当時のスウェーデンは、女性閣僚がいなかったという。
しかし、いまや北欧諸国の大臣たちには女性が多い。
女性の社会進出が大きく進んだ。

 社会的秩序より、個人の個性を大切にする。
しかも、考えたことを実践する。
この運動は、今に連なるものだ。
あの運動がなかったら、今日の西洋諸国はないだろう。
西洋諸国が共産主義に勝ったのは、自由を求め自由を実践した若者たちがいたからだ。
ビールやワインは良くて、コカ・コーラがダメなどと、今から見れば、おかしなこともあった。
しかし、どんな運動にも、行き過ぎや間違いはある。
未知な世界では、試行錯誤せざるを得ない。

 映画を見ていて、本当に懐かしかった。
当時は、生き生きしていた。
この映画を見ると、あの時代の運動の成果を、西洋諸国は充分に収穫している。
フェミニズムはノーブラをもたらし、脇毛を伸ばすこと認め、専業主婦を否定した。
そして、核家族を解体し、婚外子を大量に誕生させた。
それに対して、同じような問題意識を持ち、同じように時間を費やしていながら、我が国では運動の成果が、ほとんど収穫されていないように感じる。
日本の女性は、相変わらずブラジャーを着ける。
政治家は未だに男性の世界だし、専業主婦は相も変わらず主流だし、婚外子はほとんどいない。

 この映画を見て、1960年代後半の運動を経た者としては、我が国の現状を本当に情けなく思う。
失われた10年どころか、半世紀近くを無為に過ごしてしまったようにすら思う。
我が国は物質的には豊かになった。
我が国の自動車が、こんなに世界を走るとは、当時は想像もしていなかった。
しかし、西洋諸国が近代を脱して、後近代へと入ったのに対して、我が国はいまだ近代のままである。


 近代の制度が日本的風土と、たまたま一時的に上手くいったので、近代を脱する契機を見失ってしまった。
アジアの諸国が近代を追いかけている。
我が国は近代から脱することができないのであろうか。
個人が解放されず、男尊女卑のまま、共同体が人間を締め付ける。
自由がないところでノルマだけを課す。
そんな息苦しさが、覆い始めているように感じる。

 エリザベートたちが住んでいたアパートは、近代的で小綺麗である。
そこには今、孤独な独身男性が住んでいる。
美しい近代が残骸をさらし、美しさの疎外が近代を象徴している。
大家族の前近代と、単家族が集住する後近代は、なかば通底している。
近代だけが、対を強制して、核家族に人間を押し込めた。
スウェーデンは貧しい国だった。
映画でもそれが強調される。
しかし、今は完全に大人の国になった。
小さな国だから脱皮できたのかも知れない。

 70年代の思い出を、いっぱい詰めたこの映画は、笑いをもった喜劇仕立てになっている。
けっしてしかめ面をしてみる映画ではない。
しかし、実現したその後の世界を思うとき、あまりの彼我の違いに驚かされる。
いまやあの時代のエネルギーはないから、我が国は近代に沈むのだろうか。
近代をうち破るはずだった団塊の世代は、結局、保守性に絡め取られてしまった。
団塊の世代の一員として、内心忸怩たる思いである。

 映画自体はとても面白く見たが、我が国を振り返って見るとき、何とも言えない寂しさに襲われた。
英語のタイトルは「Together」
 2000年スウェーデン映画 

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