タクミシネマ        月曜日に乾杯

月曜日に乾杯    オタール・イオセリアーニ監督

 フランスとイタリアの合作映画だが、この映画に誰が出資したのだろうか。
この映画は採算がとれると踏んだのだろうか。
とても疑問である。
アメリカ映画が大衆を相手にし、あくまで娯楽作品を作っているのに対して、フランスやイタリア映画は、何を目指して作っているのだろうか。
平凡な毎日に意味があるという、この映画の主張は判る。
しかし、それを映像化するには、もっと工夫が必要だろう。
月曜日に乾杯! [DVD]
公式サイトから

 フランスの小さな村での話し。
溶接工であるヴァンサン(ジャック・ビドウ)の毎日が、平凡に過ぎていく。
彼は朝5時に起きる。
古いルノーのエンジンをかけ、駅へと向かう。
電車とバスを乗り継ぎ、長時間かけてやっと職場に到達する。
職場は禁煙で、煙草好きな彼は耐えられない。
彼の1日の描写は、説明的で長すぎる。

 ある日、いつものように出勤したが、工場には入らなかった。
つまり、さぼったのである。
まず、死にそうだという父親(ラズラフ・キンスキー)のところへ向かう。
父親の姉妹たちが、父の死を待っている。
彼女たちを追い出して、彼は父親と酒を酌み交わす。
父親はかつては派手に遊んだらしく、イタリア軍人と並んで撮った写真があった。
父親は彼に金を与え、旅行にでるようにいう。
ヴェニスからエジプトへと、彼の当てのない旅が始まる。


 ヴェニスでの出来事や、旅での出来事が画面に連なるが、それはこの映画の主題ではない。
長い旅を終えて、家に帰ってくる。
すると、彼の家族たちは、何事もなかったかのように、彼を受け入れる。
そして、彼もまた何事もなかったかのように、翌日は朝5時に起きて職場に向かう。
平凡な毎日を生きることの意味。
ここがこの映画の主題であるが、実に観念的な映画である。

 ヴァンサンは小さな家に住み、奥さん(アンヌ・クラヴズ=タルナヴスキ)と中学生と小学生くらいの2人の子供がいる。
3階建てのようだが、1階には彼の母親(ナルダ・ブランシェ)も住んでいる。
そこで何ヶ月も、家を空けたらどうなるか。
男が哲学に耽るのはいい。
反対に奥さんが、ヴァンサンのように家出したらどうなのだろうか。
こうした想像をしないところに、フランスの年寄り男性監督の独自性というか、没時代性よく言えば時代超越性がある。

 アメリカ映画は、つねに新たなものを生み出そうと、時代と格闘している。
だから、アメリカ映画から、新鮮な驚きと成長への息吹を感じる。
それに対して、フランスやイタリア映画からは、人間の本質といった、定着性のようなものを感じることが多い。
この映画もまさにそれで、人間が生きることは、それほど変わった毎日ではない。
むしろ日々の繰り返しこそ、それが積み重なっていって、味が出てくるのだと言いたいようでさえある。


 フランスやイタリアの映画作家には、確かな映像感覚が求められるのだろう。
この映画も、きっちりした画面構成と、自然なカットの連なり、そして引き締まった色彩と、いわゆる映像の基本的ものをおさえている。
そのため、見るのに飽きることはない。
しかし、平凡であることが主題であるため、物語は淡々と進み、淡々と終わる。
イル ポスティーノ」を思わせるような、映画の造りである。

 この映画は一部の人たちには、評価されるかも知れないが、当たり前のこと当たり前に描いているに過ぎない。
歳いった男性の、独り言と言った感じすらする。
本質追求型の映画があることは否定しないし、本質を追究して優れた映画に仕上げている例もある。
暗い日曜日」や「イースト・ウエスト」など、当サイトも高く評価している。
しかし、この映画には諦観があるだけで、力強く訴えるものがない。

 何よりも不思議に思うのは、状況設定に無理があることだ。
ヴァンサンのように日常を外れるのは、労働者階級のセンスではない。
労働者たちは外れることに憧れはするが、実際に外れたら生活できなくなることを知っている。
だから、彼等は外すことはしない。
ところが、この映画では、溶接工のヴァンサンが、日常を外れていく。
こんなことがあるだろうか。

 庶民として描かれているヴァンサンは、実は労働者階級に属するのではなく、中流階級ではないか。
母親が孫にチェンバレンを教えたり、子供が教会の壁画を描いたりする。
母親と離婚したのだろう父親は、それなりの家に住んでいる。
また、彼は絵を描くことが趣味であり、職場から帰るとカンバスに向かう。
これは労働者階級の毎日ではない。


 ヴァンサンはおそらく高等教育を、受けてもいい境遇だったはずである。
その彼が溶接工をしている。
ここがどうも良く理解できない。
彼が中流階級から、自発的にドロップアウトし、そこへ母親が転がり込んだ。
そうと思えて仕方ない。
とすれば、高等遊民のお遊びとして、この映画はすっきりと理解できる。
とすれば、子供たちの遊びが、実にハイブローなのも当然である。
この映画が、観念の固まりというのも、しごく当たり前の帰結だろう。

 映画の中のエピソードには、興味深いものがあった。
我が国では、ジプシーをロムと呼ぶべきだという主張がある。
しかし、この映画に登場するジプシーたちは、いわゆる泥棒とすれすれである。
ジプシーが村にやってくると、村人たちは一斉に窓や入り口を閉じる。
経験的に物が盗まれることを知っているので、村人たちは防衛策を講じているのだ。
これではジプシーが差別の対象にならないほうがおかしい。

 差別されているから、ジプシーたちは泥棒になるのだ、という主張と、泥棒をやるから差別されるのだ、という主張は、どちらも正しいだろう。
しかし、庶民たちがジプシーの泥棒から、自分の身を守るのは当然である。
ジプシーをロムと呼び変えるように強制するだけではなく、差別反対の主張が地についたものであって欲しい。

2002年フランス・イタリア映画

TAKUMI シネマ>のおすすめ映画
2009年−私の中のあなたフロスト/ニクソン
2008年−ダーク ナイトバンテージ・ポイント
2007年−告発のときそれでもボクはやってない
2006年−家族の誕生V フォー・ヴァンデッタ
2005年−シリアナ
2004年−アイ、 ロボットヴェラ・ドレイクミリオンダラー ベイビィ
2003年−オールド・ボーイ16歳の合衆国
2002年−エデンより彼方にシカゴしあわせな孤独ホワイト オランダーフォーン・ブース
      マイノリティ リポート
2001年−ゴースト ワールド少林サッカー
2000年−アメリカン サイコ鬼が来た!ガールファイトクイルズ
1999年−アメリカン ビューティ暗い日曜日ツインフォールズアイダホファイト クラブ
      マトリックスマルコヴィッチの穴
1998年−イフ オンリーイースト・ウエストザ トゥルーマン ショーハピネス
1997年−オープン ユア アイズグッド ウィル ハンティングクワトロ ディアス
      チェイシング エイミーフェイクヘンリー・フールラリー フリント
1996年−この森で、天使はバスを降りたジャックバードケージもののけ姫
1995年以前−ゲット ショーティシャインセヴントントンの夏休みミュート ウィットネス
      リーヴィング ラスヴェガス

「タクミ シネマ」のトップに戻る