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3〜5秒程度の短いカットを繋いで、次々と場面が変わっていく。 畳みかけるような画面の連続に、監督の意気込みと作為が感じられる。 きわめて論理の勝った映画で、最後になって明かされ主題には敬服する。 我が国では決して語られない結論である。 しかし、ワイヤーカンフーを多用しすぎ、娯楽性に欠ける。
中国の統一を成し遂げた秦の始皇帝(チェン・タオミン)にまつわる暗殺物語である。 強権的な帝国を築き上げるのは、それはそれは大変なことだったろう。 そして、近隣の国々の王たちは、強力な武力をもった秦の登場に、さぞ迷惑したことだろう。 自国を滅ぼされていくのだから、暗殺者を差し向かわせたくなろうというものだ。 しかし、彼は暗殺されずに、中国統一を完成した。 かつて秦の始皇帝を、暗殺に来た長空(ドニー・イェン)、残剣(トニー・レオン)、飛雪(マギー・チャン)の3人を、うち破ったと称する男・無名(ジェット・リー)が、彼の前に表れた。 この3人こそ、秦の始皇帝が恐れていた暗殺者で、3人を殺したというのだから、始皇帝は喜んだ。 しかし、無名と話しているうちに、不自然さを感じ取り、無名の話が嘘であることを見抜く。 つねに陰と陽といった徹底した二項対立の構造を守り、カラーとモノクロ、動と静などなどの対立的構造を駆使しながら、話は進む。 画面も、中心性の強調と、左右対象の強調が交互に使われ、きわめて作為的な画面構成である。 しかし、その構成があまりにも論理に過ぎ、心の襞と言った繊細さを感じさせない。 正統的な手法を使って、正しい画面を正面から創ろうとしている。 最後の主題を明かすまで、何を訴えたいのか、伏せたままで話は進む。 単なる活劇かと思ってみていると、最後にこの映画の主題が鮮明に主張される。 最後で何を描きたかったが良く伝わってくる。 戦乱に明け暮れた中国の長い歴史が、良く偲ばれる主題である。 秦の始皇帝だけが、中国統一の可能性をもっている。 そう悟った残剣は、無名の暗殺に手を貸すように見せながら、結局は秦の始皇帝の暗殺を止めるように、無名を説得し始皇帝のもとへ差し向ける。 始皇帝の中国統一を認めることが、無用な殺害を止めることに繋がる、と残剣は考えている。 始皇帝は無名の話を聞いて、3人の暗殺者たち特に残剣の心意気を理解し、敵対者にこそ理解者がいたと感動する。 そして、中国統一の決意を、改めて固める。 そこで自分の理解者である無名の処遇が問題になる。 結局、泣いて無名を殺すことにする。 政治支配の論理必然である。 そうしなければ支配が成り立たない。 ここでは殺すことが、正しい政治である。 また、無名もそれが判っている。 この映画は、恐ろしい主題を描いている。 「初恋のきた道」を、共産党の提灯持ちと言ったが、この監督は権力者を賛美することが上手い。 この映画も、無用な殺人を止めるのは、秦が中国統一を成し遂げることだという。 強力な政府が統一することによって、弱小国家の抗争がなくなって、庶民は平和に暮らせると考えている。 「初恋の来た道」でも共産党を賛美したように、強権的な権力賛美の思想が、この監督の根底を流れるものだ。 この資質は天下党に味方するものだし、現在の世界的な政治情勢で言えば、アメリカ帝国主義への賛美に連なっていく。 中国の長い歴史の中で、政治的な抗争が続いてきたことから、政治に対する冷徹な目が養われたのだろう。 ただ無事な日々が保証されることこそ、庶民の望みであり、誰が権力者であるかはどうでも良いことである。 庶民にとって、支配者が誰であるかは関係ない。 アメリカ人だろうが、中国人だろうが、世界を無事に治めてくれさえすれば、それで良い。 最強のものへの連帯が、この映画の主題である。 政治力学の主張を聞かされると、近代の個人主義は本当に小さく見える。 しかし、世界の政治は、リアリズムが支配している。 政治を情感で行ったら、庶民は苦しむ。 小異を取ったら、政治の王道はたちいかない。 水戸黄門や大岡越前のような義理人情の政治は、かえって庶民を苦しめるのだが、我々はリアリズムを認めたがらない。 この映画は日本から最も遠いところにある。 「始皇帝暗殺」など、秦の始皇帝を巡る物語は、すでにたくさん作られている。 歴史に残る英雄は、何度でも語られる。 しかも、作家のほうからの読み込みによって、英雄は如何様にも語ることができる。 この映画では、統一を成し遂げるのは、単なる暴君ではできないという当然のことを描いているが、近代の国民国家理念はまったく登場しない。 愛国心など微塵もなく、庶民対支配者の観点が、強大な権力者肯定に繋がっていく。 中国解放軍が大挙して出演しており、こんなにたくさんの人を登場させうるのは、今では中国だけかも知れない。 政治力学の理念は、近代とは無関係に成立しうるものだから、いまだにマキェヴァリが通用するし、この映画のような主張もありうる。 しかし、近代をくぐるとは、個人的な人権思想を体得することであるとすれば、この映画には近代思想はまったくない。 2002年中国映画 |
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