タクミシネマ         アバウト シュミット

 アバウト シュミット  アレクサンダー・ペイン監督

 近代に入ると自然に生かされるのではなく、自然を生かすために人間は都市へと移り住んだ。
都市は工業を生み、農業を変革した。その結果、乳幼児死亡率は劇的に低下し、人間は潤沢な生活を手に入れた。
しかし、豊かさは孤独と引き替えだった。
神を殺して始まった近代の孤独を、この映画は正面から見据えている。
ほろ苦いアイロニーに満ちたこの映画は、何と厳しい視線だろうか。
アバウト・シュミット [DVD]
劇場パンフレットから

 ネブラスカ州のオマハにある会社で、経理部長代理まで勤め上げたシュミット(ジャック・ニコルソン)が、平凡に定年を迎えて退職する。
冒頭のシーンが、彼の生い立ちを雄弁に物語る。
役員まで出世したわけではない彼には、派手なセレモニーはなかったが、近しい友人たちがパーティを開いてくれた。
それも終わってみれば、彼は用済みの人間である。

 仕事という大きな時間がはずされてしまうと、人間はすることがなくなってしまう。
彼もご多分に漏れず、会社に負っていたことに愕然とする。
そんな時、42年も一緒だった妻のヘレン(ジューン・スクイブ)が、突然に他界してしまう。
ますますもって、彼には何もすることがなくなった。無用の人間になってしまった。


 彼はテレビで知ったフォスター・ペアレントになる。
そして、22ドルの小切手とともに、アフリカの見知らぬ息子ウドゥグに手紙を書き始める。
その手紙は彼の内心を明らかにしていくが、妻の死は強烈な孤独となっておそってくる。
妻への感謝を感じる。
しかし、妻の遺品を片づけていると、友人のレイ(レン・キャリオー)との間にかわされたラヴレターを発見する。
25年も前のことだが、妻は自分を裏切っていた。

 妻への愛に感謝したばかりだったが、たちまち変心して、1人娘ジーニー(ホープ・ディヴィス)の住むデンヴァーへとキャンピングカーで向かう。
しかし、娘は冷たく拒絶。結婚式の直前になって来てくれという。
仕方なしに人生の記憶をたどり、生家の跡、母校のカンザス大学を巡る旅に出る。

 彼は娘の結婚に大反対だった。
しかし、娘の人生は娘の人である。
今まで口出ししないできたが、突然に結婚反対を宣言すべく、意気込んで娘の住むデンヴァーへと向かう。
結婚相手の家は、ピッピー崩れとでも言ったらいいのだろうか、全員が少し外れていた。
母親のロバー夕(キャッシー・ベイツ)は、今まで見た誰とも違っていたし、家族たちもいわゆる自由人だった。

 結婚式を壊すことはできない。
彼は結局大人の態度をとって、オマハへと帰ってくる。
そして、彼は自分の人生を振り返ってみる。
自分の人生で何か残しただろうか。
誰かに影響を与えただろうか。
定年退職と妻の死が同時にやってきて、シュミットは自分の人生にわびしさを感じる。

 農業が主な仕事だった時代の家族は、大勢の人が同居していた。
そこには様々な確執があったが、自然のなかで与えられた自分の役割を果たしていたので、それぞれに安定した人生があった。
農民に生まれたら農民になるのだし、職人の家に生まれたら、職人になる。
生まれが人の生き方を決めてくれた。
人間が自分で生き方を選択できる余地はなかった。

 乳幼児死亡率が高かったので、生き残るのが厳しかった。
しかし、子供時代さえ無事にすごせば、それなりの人生が約束されていた。
人間は自然に生かされていたので、自分が有用か無用かなど、考える必要はなかった。
神様から自立することなど、誰も考えていなかったから、自然の繰り返しがゆったりとした時間を与えてくれた。


 工業社会になると、事情はまったく違った。
家が生産組織ではなくなったので、男性たちは工場や会社へと働きに出た。
そして、女性は男性の妻として、農業社会から離れていった。
家族は大地の支えを失い、労働力を確保する必要はなくなった。
人々は群れる必要がなくなって、核家族として都市に住んだ。
神様はもういない。

 人間の有用・無用は、自分で決めなければならなくなった。
生まれが人間を決めない。
農民に生まれても、農民以外の職業につける。
土地から離れた人間は、職業すら自分で決める。
人間たちは自分で考え、自分で自分の人生に意味を見つけなければならなくなった。
豊かな社会になって、孤独がおそってきた。

 若い時代には、自立することが輝いて見えた。
若い時代には、どんな状態でも、明日を信じて生きることができる。
工業社会は若者の時代だった。
しかし、かつての人間たちが、自然の中で味わったような安定感はない。
男も女も、全員がたった一人である。

 工業社会では病院が完備されたので、家族に囲まれて出産する。
家族に囲まれて死んでいくことはない。
家族は生産のために大家族として集住する必要はない。
都会の家族は、いまや1人である。
小津安二郎が「東京物語」で描いたように、都会の家族には田舎の両親を受け入れる余地はない。


 この映画は、神を殺して近代を切り開いてきた人間が、最後になって神の孤独を体験させられている様子を描く。
めぐりあう時間たち」は、女性たちの自立を描いていたが、女性も自立した今、孤独は男性だけのものではない。
彼女を見ればわかること」は、女性の孤独を描いて秀逸だった。
今やすべての人間が、厳しい孤独と対面させられる。
自立は孤独と表裏一体である。
前近代には、寂しさという情感はあったが、孤独はなかった。
今後ますます孤独になっていく。

 この映画は、当然とされることだが、誰も語ろうとしないことを、厳しいまなざしで描いている。
哲学的な主題を真摯に問うている。
工業社会において人間が自立した結果、自分の価値を自分で決めなければならなくなった。
自分の有用性を自分で決めるとは、厳しい決定を強いられることである。
ここからは、神の孤独が必然である。

 この映画に限らず、最近のアメリカ映画からは、アメリカが大人になりつつあるのを感じる。
アメリカにはプラグマティズムだけで、哲学がないと馬鹿にされていたが、じっくりとだが思考が熟成されている。
近代の若者だったアメリカは、哲学を語る必要がなかっただけなのだ。
工業社会という古い時代を過ぎ、情報社会が見えた今、近代という工業社会が相対化できるようになった。
今後アメリカからは、大量の哲学が登場するだろう。

 映画としても良くできている。
ジャック・ニコルソンは実生活では実に嫌味な男性らしく、ヘレン・ハントなど共演した女性たちからは総スカンである。
しかし、彼は演技が上手い。
最初のシーンに登場したときから、すでに彼は悲哀に満ちたサラリーマンの存在を感じさせる。
そして、定年退職していく男性の複雑な心境を見事に演じている。
物語が始まれば、彼の心理が良く表現されて、観客は彼の立場に同化していく。

 脇役たちも達者だった。
キャッシー・ベイツは達者な役者だが、あの体型である。裸になることなどないと思っていたら、見事に全裸になって、30センチも垂れ下がった乳房を披瀝した。
見上げた役者根性だ、と実に感心である。
どのように映画を終わらせるのかと思っていたら、フォスター・チャイルドからの手紙を読んで、彼が涙するシーンが最後だった。
星を一つ献上する。

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