タクミシネマ         めぐりあう時間たち

 めぐりあう時間たち   スティーブン・ダルドリー監督

 1921年のイギリス、サセックスの田舎に住むヴァージニア・ウルフ(ニッコール・キドマン)。
1951年のロス・アンジェルスにすむローラ(ジュリアン・ムーア)。
2001年のニューヨークに住むクラリッサ(メリル・ストリープ)。
時代も場所も異なりながら、何かが共通する3人の女性をとおして、女性の生き方や世の中の移り変わりを描いた映画で、フェミニズムの定着が色濃く反映されている。
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 先駆的な女性として、名前の挙げられるヴァージニア・ウルフだが、早すぎた彼女の人生は苦痛に満ちたものだった。
精神を病み、ロンドンの生活から田舎へと移ってきたが、彼女に安住の地はどこにもなかった。
今でこそ彼女の名前を知らない人はいないが、当時の彼女には理解ある夫レナード以外に、近しい人はいなかった。
理解ある夫といえども、彼女の精神的な内面を知るよしもなく、彼女はとうとう自殺してしまう。

 ヴァージニア・ウルフの書いた小説「ダロウェイ夫人」が、この物語の導きの糸になって、30年後に生きるローラと、そのまた50年後に生きるクラリッサを繋いで、物語は進んでいく。
1951年、ローラは復員してきたダンと結婚して子供を授かり、現在2人目を妊娠中である。


 ダンは彼女に優しいし、それなりに幸福である。
しかし、専業主婦のローラには、生きる手応えがない。
夫も彼女に理解あるし、子供もかわいいが、自分の人生をむなしく感じるばかりである。
一度は自殺を図るが、死ぬことは止める。
2人目の子供を産んだ直後、夫と子供を残して、固い決意で家出をしてしまう。

 編集者のクラリッサは、2001年のニューヨークに恋人のサリー(アリスン・ジャニィ)と住む。
一時は男性とも同居したが、自分がゲイであることを知って、人工授精で子供を産んだ。
かつての同居人リチャード(エド・ハリス)はエイズに冒され、彼女が毎日通って面倒を見ている。
今日は、リチャードの受賞パーティである。
3つの物語が時間を超えて、カットを前後しながら、時代と人生を語りかけてくる。

 イギリス人監督らしく、自分の主張を前面には出さないが、ややシニカルに押さえたタッチで女性像を描く。
フェミニズムの先駆けと目されるヴァージニア・ウルフの悩みを、後世の女性たちは全員が体験することになった。
ローラは専業主婦のむなしさに、クラリッサはリチャードの世話にと、どこか自分を生ききれないもどかしさがある。

 女性たちは自由になったといっても、まだまだ不自由である。
現代に生きるクラリッサは、恋人も子供もおり、何不自由ないように見えるが、子供からはどこか寂しげだと言われる。
ベビーブーマ世代の女性たちは、自由を手に入れた。
しかし、その自由は作為に満ちたものであり、男性が近代の入り口でしたのと同様に、神の手から強引に奪ったものだ。
自由であることは自立することであり、1人で立つことは不自然である。
そして、孤独でもある。


 すでに歴史になっているヴァージニア・ウルフに関しては、事実を描くだけで監督は何のコメントもしないが、ローラやクラリッサには共感と同情をよせる。
夫と2人の子供をおいて家でしたローラには、子供たちからは裏切り者扱いされたが、自分の人生を生きるためには仕方なかったのだ、私は後悔していないと言わせる。
家出したローラは、トロントで図書館に職をえて、経済的に自立する。

 我が国では、女性の自立より子供への愛情が優先されがちだが、「クレーマー、クレーマー」でも描かれたように、女性も人間である以上、自分の生を生きることが優先されて当然である。
自分を自立させることが、フェミニズムの主張だった。
自立していない女性が子育てをすることは、かえってマイナスである。
女性であることで、人間性が免責されることはない。
女性であることを越えて、人間であることを主張するのが、やっとたどり着いたフェミニズムの結論である。

 子供より自分、それが肯定されて初めて、フェミニズムは女性の自立に存立基盤を与え得た。
女性の自立にとって、子育ての放棄が不可欠だったことが判っているので、この監督も厳しかった女性の選択を暖かく見ている。
しかも、子育てを放棄してまで手に入れた自由は、必ずしも甘美な幸福感をもたらしてはくれないことも、また当然なのだ。

 自由になることは、神の悩みを体験させられることだから、自然に反しているし厳しいものである。
厳しいことを知っているにもかかわらず、神に逆らわざるを得ないのが人間である。
主人公はヴァージニア・ウルフのように見えるが、この映画の主題を一番よく表現しているのは、「人形の家」のノラのように家出したローラであろう。
最後になって、クラリッサが世話をしているリチャードは、ローラが捨てた子供であることが明かされる。
しかし、その時には、リチャードは自殺していた。


 人間は高いビルをつくり、宇宙にまで出かけ、遺伝子操作により人間をも創りだそうとしている。
これは神に逆らって、人間が近代を切り開いてきた成果である。
神を生きる人間であることに、我々は後悔しないが、厳しい道を選んでしまったものだ。
男性も同じ道を歩いてきたのだが、女性の方が最近になって神に反逆したので、苦悩の跡がなまなましく残っている。
女性が女性であることに逃げ込んでしまい、女性が子育てを放棄しなかった我が国では、この映画が何を主張しているのか皆目分からないだろう。

 本当に残念なことに、我が国ではフェミニズムは崩壊してしまった。
我が国のフェミニズムは、女性が人間になることを拒否した。
専業主婦という地位を捨てることを、最後まで拒否したのが我が国のフェミニズムであり、それをイデオロギー的に支えたのが、大学で女性学を教える女性たちだった。
いまや我が国の大学フェミニズムは、きわめて反動的な存在になっている。
フェミニズムをきっちりと見据えた映画を見ると、我が国の現状が本当に残念に思える。

 ローラが最後にクラリッサの家にきて、一晩泊まるとき、クラリッサの娘ジュリア(クレア・ディーンズ)がじつに気さくに、しかも優しく真摯的にふるまう。
厳しかった女性たちの20世紀に、この映画は共感と同情を、そして21世紀の女性には希望をあたえている。
つまり、ヴァージニア・ウルフが自殺、ローラが家出と、悲劇的な展開をたどったのに対して、現代のクラリッサはサリーと同棲して子供までいる。

 クラリッサのような環境が手に入ったのなら、ローラも家出しなかったろう。
時代は着実に女性の自立を認めるようになった。
工業社会で男性の労働力が必要だったように、情報社会では女性の知的労働力が不可欠なのだ。
ゲイのカップルであるクラリッサに育てられたジュリアは、これから逞しく生きていくだろう。
それを最後に予感させる。

2002年アメリカ映画 

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