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イタリアン・レストランを舞台にした映画である。 冒頭、何の説明もなく物語が始まってしまうが、それでもどんな映画が始まるのか予測がつき、安心して物語に入ることができる。 やがて登場人物の紹介があり、タイトルがあらわれる。 安定した画面を、短いカットでつなげて、この監督はなかなかの腕前だと知る。 良くできた映画である。
ニューヨークのトライベッカに、ジジーノというイタリアン・レストランがある。 オーナーはすでに老境に入りかけたルイス(ダニー・アイエロ)で、シェフはその息子のウード(エドアルド・バレリーニ)である。 ウードは斬新な料理を編み出し、いまや花形シェフともてはやされている。 彼の料理を食べたくて、客は何週間も前から予約を入れる。 今夜も満席である。 ウードの料理は、長蛇の列ができるほどの客を呼ぶが、ルイスは昔ながらの料理が食べたい。 にもかかわらず、ウードは今風の評論家向けといった料理しかつくらない。 そのうえ、自分に経営権を移せと迫ってくる。 二番シェフのダンカン(カーク・アセヴェド)は、ルイスのお気に入りの料理をつくってくれるが、とんでもないギャンブル狂だった。 しかも、ルイスは博打の胴元もやっていた。 そのもつれで、ルイスの無二の仲間エンリコが殺されてしまった。 ルイスは何かと気の滅入る日々だった。 ダンカンに貸しを作ったマフィアたちは、ルイスの店の上がりの20%をよこせと言って、土曜日のかきいれ時にやってくる。 そこでルイスは、警察官を客として店に入れておき、しかも殺し屋を雇っておく。 そして、ダンカンの謝金を立て替える振りをしながら、マフィアたちを射殺してしまう。 話は簡単だが、その展開は実に巧妙に計算されて、徐々に明らかになる真相に、観客は知らずのうちに引き込まれていく。 映画の中盤で、マフィアが登場してからは、1晩つまり5時間くらいの物語である。 さりげなく背景にあらわれる時計が、7時から11時へと時間を刻んでいく。 話の断片を密実に組み上げたカット、しかもきわめて短いカットをつなげて、精確に話がはこぶ。 ルイスとウードの親子関係。 ダンカンとウードとの関係。 ダンカンとギャンブル、それに恋人ニコーレ(ヴィヴィアン・ウー)のからみ。 エンリコの娘とルイスの淡い恋愛関係。 バーのカウンターに座る不思議な男ケン(ジョン・コルベット)、これがじつは殺し屋である。 ウエィトレスのマルティ(サマー・フェニックス)と客の対応。料理評論家の登場。雑学の大家であるバーテンの客扱い。 マフィアのイタリア人っぽさ。 イタリア人たちの後進性などなど。 細かい話題がぎっしりと詰まっていながら、決してごちゃごちゃにならなず、観客は映画を充分に楽しめる。 短いカットは、もちろん意識的にやっているのだろうが、それが調理場の超忙しいリズムと良くあっている。 満席の客をさばく調理場は、熱く素早い仕事ぶりで、戦場のようである。 導入部でこそ普通のカットの長さだが、あとは七秒とないのではないだろうか。 鍋やフライパンがおどり、皿が舞う様子は、いかにもの熱血的な仕事場である。 手の部分のアップは、吹き替えだろうが、役者の演技と不自然なく繋がっている。 調理人の手は、コンクリートのようになっているはずで、焼けた鍋なら別だが、フライパンに鍋つかみなど使わないだろう。 タオルのような鍋つかみをどこに置くのだろう。 あの部分は、ヤワな役者の手だったということだろうか。 それなら仕方ないが。 調理場と客席の繋がりもうまい。 調理場が地下一階で、客席が一階というサービスには不向きな設定も、階段の部分での演技に生かされている。 手摺りに首をのせたり、階段でのすれ違いを見せたりと、難いばかりの使い方である。 最後に地下にあるトイレで、マフィアを殺すシーンでは、階段の上に男が足を開いて通せんぼしている。 これも上手い使い方である。 調理人たちの生態もよく観察されている。 ダンカンの駄目さと料理の腕前、人格破綻者とでも言うべき職人たちの素晴らしさ。 戦場的キッチンのリズミカルな描写。 映画館の入り口カウンターに、「キッチン・コンフィデンシャル」が置かれていたが、両者の物言いは共通している。 この映画の視点は、本職の厨房をよく観察した結果だろうし、偏見のない目で職人たちをよく見ている。 近代化が進んだアメリカ人は、ジャンクフードを愛好するように、食に淡泊である。 それに対して、近代化が充分ではないイタリア人たちは、しつこく食にこだわる。 食というより生の肉体的快楽といったらいいだろうか。 身体の快感へのこだわりが強いように感じる。 同じようにイタリアン・レストランを扱った「リストレンテの夜」では、古いタイプの味覚にこだわって滅びていくシェフを描いていた。 肉体的な快楽の追求は前近代のほうが強く、近代化が進むと無色化してくるようだ。 味覚だけではなく、セックスに関しても、イタリア人のほうが快楽の生理に、従順かつ貪欲な気がする。 個人化がすすんだアメリカより、イタリア人のほうが家族的であるのも、前近代性との絡みで考えれば当然だろう。 義理人情といった前近代性は、血縁の家族的なつながりを、自然のものとして肯定するだろう。 とすれば、イタリア人的熱狂は享楽性として理解できるし、アメリカ人の味覚音痴は、超近代性として理解できる。 また核家族の崩壊が最も早いのが、アメリカであるのも当然である。 名前を聞いたことがないし、カットの短さ、精確なカットの繋ぎなどから、てっきり若い監督だろうと思ったが、1939年生まれと63歳の老人である。 あの早いリズム感と、論理的な展開を積み上げる旺盛な体力には、脱帽である。 もっとも、CM監督としては有名人だとか、そう聞かされると納得ではある。 精巧な映画のつくりに、星を一つ献上する。 2001年アメリカ映画 |
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