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1931年、イリノイ州での話。 マイケル・サリヴァン(トム・ハンクス)はギャングの幹部として、それなりの生活が成り立っていた。 身よりもなく貧乏だった彼を、ギャングのボスであるジョン・ルーニー(ポール・ニューマン)が、小さな時から面倒を見てくれていた。 そのおかげで今の彼があった。 それを感謝するサリヴァンは、ジョンを実の親として仕えていた。
ジョンの指令を受けて、ジョンの息子コナー(ダニエル・クレイグ)と彼は、仲間の不祥事を糺しに行く。 そこで反対に、不正を指摘されたコナーは、仲間を殺してしまう。 しかし、その射殺シーンを息子のマイク・サリヴァン・ジュニアー(タイラー・ホークリン)が見てしまった。 マイクは動揺し、父親との距離をとるようになる。 この殺人を口外するのではないかと、心配したコナーはマイケル・サリヴァンの一家を殺害しようとする。 事情を知っているジョンは、本来なら息子のコナーを糺すべきだが、実の息子とあってけじめが付けられない。 マイケルとコナーのあいだにあって、結局コナーを選んでしまう。 マイケルは仲間から追われる身になるが、最後にはジョンもろとも殺して復讐を果たす。 しかし、すでに放たれていた殺し屋マグワイア(ジュード・ロー)が、マイケルの命を奪った。 不肖の血縁の子供と、良くできた義理の子供との相克に、親であるギャングのボスが悩む。 こうした義理人情の話は、わが国の得意とするところだ。 しかも、やくざの論理が勝つのではなく、個人の信条が勝つというのも、健さんや鶴田宏二でおなじみのところである。 ギャング映画としてみれば、わが国のやくざ映画と同様に、親子の義理としがらみのように見えるが、やくざ映画と違って主題は親子愛ではない。 この映画の主題は、父子物ではない。 たしかに父と子供、それをおそう理不尽な渡世のしがらみは、物語の下敷きにはなっている。 しかし、父子の愛情は、状況に過ぎない。 この映画の主題、つまり言いたかったことは、反拳銃というか反暴力である。 英語をそのまま使えば、「Anti gun movement」のキャンペーンである。 父親のマイケルは、苦労して育つ過程で、暴力に不感症になってしまった。 暴力団の一員として、日々の仕事は拳銃を発射することだ。殺すことが彼の仕事である。 マシンガンまで携えて、人を殺している。子供にはこの仕事を見せたくない。 ましてや子供には、この仕事を継がせたくない。 そう思っているから、マイケルには距離をとっていた。 しかし、状況が彼を復讐へと駆り立てた。 復讐がすべて終わり、やっと身が軽くなった。 サラおばさんの家へと遊びにいくと、待っていた殺し屋に、マイケルは撃たれて虫の息になる。 暴力の決着は、暴力がつける。 とどめを刺そうとする殺し屋に、息子のマイクが拳銃を向ける。 しかし、マイクは引き金が引けない。 ここがこの映画の最大の見せ場である。 予測されたとおり、瀕死のマイケルが渾身の力を振り絞って、殺し屋を射殺する。 子供に殺人という罪を負わせることを避けるべく、死んでいくマイケルが射殺する。 この映画では、ギャングといえども、殺人は悪いことだと自覚されている。 ジョンは教会に行き、祈りを捧げている。 ギャングたちは敬虔なカソリックである。 しかし、殺人者は天国に行けないとも自覚している。 だから、マイケルは息子を殺人者にしないために、銃を撃たせなかったのだ。 状況にうながされて、マイクは初めて銃を握ったが、それから一度も銃にはふれたことがない、と最後に冒頭のシーンに戻って、海辺での独白がはいる。 長々とギャングの内輪もめを見せてきたが、この映画はこの最後のシーンを見せるためだけに、長い物語が必要だったのである。 監督は、親子の愛情を描きたかったわけではない。 親子の義理人情的な愛情物語は、今のアメリカは関心がない。 ましてやこの映画のように、父親が子供を守ると言った形での愛情表現は、すでに死んでいる。 今のアメリカには、子供のほうから見た自立としての親像はあっても、親の生き方を見せて教訓を垂れることはない。 パーディションとは地獄という意味である。 暴力は何も解決せず、ただ破壊するだけである。 むしろ暴力は地獄への道だと思うから、「Road to perdition」の意味が通るのである。 この映画の主題が、反暴力・反拳銃だから、きわめて現代的な映画として浮かび上がる。 映画評論家の佐藤忠男氏が、劇場パンフレットで<稀にみる強靱な愛の物語…>と、親子の愛情物語という解説をしているが、彼ほどの人がまったく映画を見ることができていない。 この映画を、「Anti gun movement」とみる人は、わが国の映画評論家ではほとんどいない。 この時代、ユニセックスなどどこにもなかった。 男は男であり、女は女だった。 女性の自立が始まる前には、男性のファッションも女性のファッションも、性的な臭いをぷんぷんさせていた。 この映画の男たちも、長いコートにソフトをかぶり、かっちりとした背広を着ている。 すでに過ぎてしまった宴の後である。 相変わらずアメリカは、古いものをよく残している。 ファッションを初めとして車や建物など、時代考証に耐える物があるのだろう。 ちょっと気になったのは、殺し屋マグワイアが表の家業として写真屋になっていたが、彼の使っていたカメラはスピグラだった。 スピグラは、普通は三脚を使わないだろう。 それにロールフィルムを扱うシーンがあったが、スピグラはロールフィルムではない。 「写真家の女たち」でも、フィルムの違いがあったが、しかし、こうした違いは許されるだろう。 それに製作者たちは、それを知っているはずである。 シートフィルムを弄んでいるのでは絵にならないし、35ミリフィルムではあまりに現代的すぎる。 それに35ミリでは、プロっぽくないかもしれない。 だからこうしたディテールの違いは許される。 最後の字幕に、旅行コーディネーターとして、<カゲヤマ キョウコ>なる名前が挙げられていたが、おそらく日本人女性だろう。 外国映画の裏方として、頑張っているのだろうと思うと、応援したくなる。 2002年アメリカ映画 |
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