タクミシネマ                  クワイエット・ルーム

 クワイアット ルーム  ロルフ・デ・ヘール監督

  いかにも今日的な主題である。
核家族で夫婦の仲が悪くなると、子供はどうしていいか判らない。
7才の子供が、喧嘩ばかりする母親と父親にたいして、仲直りして欲しいから、口を聞かないというかたちで、抵抗を始めるオーストラリアの映画である。

 仲良くなって結婚し、子供が出来た。
子供が小さな頃、両親は仲が良かった。
だんだん仲が悪くなり、毎日喧嘩ばかり。
農耕社会のように住宅が開放的な作りで、近所の人が気楽に入ってきたり、大家族でおじいちゃんやおばあちゃんが同居していたりすれば、両親の仲違いのとばっちりが子供にだけ来ることはない。
他の大人に逃れることもできるし、よその家に避難することもできる。

 工業社会になって、家族は社会に閉じ、構成員は両親とその子供だけになった。
しかも、最近では子供の数が少なく、1人か2人である。
この映画のように子供が1人だと、夫婦を前に、子供はどこにも逃れることはできない。
両親の仲違いの前で、ただおろおろするだけである。
しかも、最近は女性が台頭したので、男性も女性も対等に喧嘩をする。

 世界の中を見れば、大家族の所はたくさんある。
そこでは子供は親の所有物であり、子供の人権など考えられもしない。
オーストラリアは先進国で、子供の育つ環境はいい。
この映画でも、子供部屋はあるし、おもちゃもある。
子供の本もある。
大人たちはに子供に愛情を注ぐ時間的な余裕もある。
個人的には父親も母親も、子供に愛情を注ぐ。
子供の人権が守られている。

 先進諸国では、大人たちの精神的な欲求が先行する。
愛情がさめたら、互いに我慢することはせず、感情を露にぶつけ合う。
女性が台頭した今、自己実現が何にもまして優先され、耐えることは美徳ではなくなった。
子供は親の所有物ではなくなった分だけ、子供の人格が独立した。

 男性が女性を虐める形で喧嘩していれば、子供は弱い女性の方に同化できる。
しかし、いまや男女が同じ。
子供はどちらにも同化できず、ただ孤立するだけ。
工業社会の裕福な家庭環境になって、子供は大人と同じような立場を要求されている。
子供は未熟だからと、保護されることはない。

 農耕社会では誰もが、役割に従って生きた。
父は父らしく、母は母らしく。
そして子供は、1人前の人間として扱われず、自分の世話が出来るまで、半人前のお味噌だった。
そして、1人前の働きが出来るようになると、いきなり大人として扱われた。
早くも20代で一国の主として、大勢の年長者を引き連れて、戦場を駆けめぐったりもした。

 工業社会では、子供が成人するには長い年月がかかる。
学校での長い年月に渡る知識教育はあっても、社会的な訓練はない。
世代間の繋がりはなく、孤立したままで成人する。
この映画は、そうした工業社会の子供の心の叫びを主題に、子供の立場から家族内の人間関係を、まともに見据えている。

 しかも、特別な家族の問題としてではなく、一般的な家族の問題として提起する。
そのため、父親(ポール・ブラックウエル)はパパとかダディーとか時計さんと呼ばれ、母親(セリーヌ・オラーリ)はマーム、子供(7歳クロエ・ファーガソン、3歳フィービー・ファーガソン)はダーリンとか愛称で呼ばれるだけ。
具体から離れるために、全員に名前がない。

 核家族の先には単家族が見えている。
核家族が2人の男女の葛藤をさらけ出すとすれば、単家族は1人の成人の心の内的な葛藤を、子供にまともに見せる。
核家族が2人のあいだから排除された悲劇だとすれば、単家族は悩む大人の姿をそのまま見せる悲劇である。

 大人と子供のあいだには、まったく質的な違いが置かれず、子供は大人の精神的な投影の対象となる。
いつの間にか大人と子供は同質の者となっている。
幼児虐待や近親相姦は、もう目の前である。
家族が小型化する今、人間の弱さを考えるべきである。

 この映画は単家族までは踏み込んでない。
排除された子供の無言の叫びである。
この映画に共感するのは、核家族や女性の台頭が子供を排除しても、大家族や核家族を守れという結論にならないことである。
子供には残酷かも知れないが、いくらかの希望はありながら、両親は離婚して映画は終わる。
時代の流れを反対に回そうとはしていない。
子供を守るために、家庭の大切さや、父性の復権を言わないところが、時代を良く判っている。

 大家族の回復は不可能だし、女性の台頭は止めようがない。
核家族が崩壊の兆しを見せはじめたので、核家族の問題点が明らかになり始めた。
ロルフ・デ・ヘール監督は、核家族に限界があることは認めながら、決して懐古趣味に陥らない。
むしろ離婚して男女関係は崩壊しても、父親も母親も子供には向かい合う姿勢を崩さない。
先へ進むことしか選択肢はなく、戻ることは出来ないのだ。
進む方向を、いかに良い方向へと向けるかだけが、残された道である。

 オーストラリアの映画は、現代的な主題に良く挑戦している。
しかし、映画的な手法や、画面の見せ方は、洗練されてない。
バード・ケージ」や「ウエルカム ドール ハウス」が、家族の話をコメディーとして見せるのにたいして、この映画は真正面から取り組んでいる。
それはこの映画だけではなく、「シャイン」や「ミュリエルの結婚」なども、まじめであるだけに灰汁抜けてない。

 本当に安い予算でつくられた映画である。
演じるのは3人だけ。場面もほとんど家の中。
本物の家を使ったらしいが、セットを組んだとしても、その場面はいくらもない。
何も壊れない。SFXもない。
中盤がやや中だるみで、商業映画としては良い点を付けられない。
しかし、ロルフ・デ・ヘール監督の視点は、全体としていい映画に仕立てている。

 主題の追求は技術的な発展を生むが、テクニックの追求は主題の飛躍をもたらさない。
それゆえ、オーストラリアの愚直なまでの映画作りは、今後が楽しみである。

1996年オーストラリア・イタリア映画


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