|
|||||
すでに鬼籍に入ってしまった天才写真家ダイアン・アーバスに捧げた映画である。 かのリチャード・アヴェドンに、「自分にダイアン・アーバスほどの才能があったら…」といわせた女性写真家だが、この映画では彼女の才能には、ほとんど触れていない。 彼女はファッション写真家として出発したはずだが、それにも触れていない。
1958年のニューヨークを舞台にしたこの映画は、何が言いたかったのだろうか。 「彼女がなぜフリークスにのめり込んでいったのか」を描いたと、劇場パンフレットが言うようには、とても受け取れない。 この映画で見る限りは、たんなる変人にしか過ぎないように見える。 内心の葛藤の発露が、フリークスに向かったという理由は不明のままだ。 天才に捧げるというという以上、ダイアンの才能をどんな形でかであれ、画面に描くものだろう。 にもかかわらず、彼女の才能を示すシーンは、ほとんど描かれていない。 わずかに彼女の撮った写真に、夫のアランが声を失うシーンがあったが、それとてもはっきりと描いているわけではない。 「炎のごとく 写真家:ダイアン・アーバス」を読めば分かるように、彼女は決して常識人ではない。 彼女は自分のマスターベーションを公言し、生理の出血に誇りをもち、それを大声で語った、という。 そして、麻薬を使ってまで、誰彼となくセックスをしたらしい。 天才だった彼女が、ふつうの市井の生活に収まるわけがない。 こんなかたちで彼女のあの写真が撮られたとは思えない。 しかも、多毛症の男性に恋して、最後に彼の体毛を剃るが、あんな剃り方は物理的に無理だろう。 タオルなどで蒸さずに剛毛を剃ったら、体中が血だらけになってしまう。 また、剃りあがった後の体表が、ツルツルで不自然きわまりない。 体毛を剃ってしまった男性は、ふつうの男性でしかない。 この映画では、体毛に性的な刺激を感じていたはずだ。 だから、剃ってしまった身体に、好感を持つのも不自然である。 結局、描かれたのはふつうのセックスであり、彼女の表現への軌跡は何も描かれておらず、なんの知的刺激もなかった。 この監督の前作「セクレタリー」では、マゾとサドの屈折した幸福を描いて、優れた時代感性を見ていた。 が、この映画ではダイアンに圧倒されて、彼女の内面まで踏み込めなかったのだろう。 それと、ダイアンを演じたニッコール・キドマンが、ダイアンに似ておらず美人にすぎた。 ダイアン・アーバスを知らない人がこの映画を見たら、彼女は何者だったかまったく分からないだろう。 もっとも彼女の人となりを知って見ても、ちょっと変人といった程度にしか見えなかった。 あの程度の女性ならいくらでもいる。 彼女の活躍した1960年代に、いくらアメリカでも彼女のような女性は少なかった。 ヒロミックスや蜷川実花など、我が国でも女性写真家が話題になるが、内容はずいぶんと違う。 おそらく現代の我が国でも、彼女のような表現者は少ないだろう。 いずれにしても、よく分からない映画だった。 彼女が手にしていたカメラは、ローライフレックスだったが、あれを使ったのは本当なのだろうか。 電球形のフラッシュを、連続して焚かせたり、とてもウソっぽかった。 パトリシア・ボズワースの「炎のごとく」によれば、 ローライフレックスではなくMamiyaのC330だという。 原題は「fur」 2006年のアメリカ映画 (2007.6.1) |
|||||
<TAKUMI シネマ>のおすすめ映画 2009年−私の中のあなた、フロスト/ニクソン 2008年−ダーク ナイト、バンテージ・ポイント 2007年−告発のとき、それでもボクはやってない 2006年−家族の誕生、V フォー・ヴァンデッタ 2005年−シリアナ 2004年−アイ、 ロボット、ヴェラ・ドレイク、ミリオンダラー ベイビィ 2003年−オールド・ボーイ、16歳の合衆国 2002年−エデンより彼方に、シカゴ、しあわせな孤独、ホワイト オランダー、フォーン・ブース、 マイノリティ リポート 2001年−ゴースト ワールド、少林サッカー 2000年−アメリカン サイコ、鬼が来た!、ガールファイト、クイルズ 1999年−アメリカン ビューティ、暗い日曜日、ツインフォールズアイダホ、ファイト クラブ、 マトリックス、マルコヴィッチの穴 1998年−イフ オンリー、イースト・ウエスト、ザ トゥルーマン ショー、ハピネス 1997年−オープン ユア アイズ、グッド ウィル ハンティング、クワトロ ディアス、 チェイシング エイミー、フェイク、ヘンリー・フール、ラリー フリント 1996年−この森で、天使はバスを降りた、ジャック、バードケージ、もののけ姫 1995年以前−ゲット ショーティ、シャイン、セヴン、トントンの夏休み、ミュート ウィットネス、 リーヴィング ラスヴェガス |
|||||
|