|
||||||||
おそらく自分探しの映画であろうと思うが、じつに難しいというか、まったくエンタメ性のない退屈な映画である。 劇場パンフレットに、2回見ないとわからないと書いてあるくらいだから、何をかいわんやの映画である。 たくさんの賞を取っているが、本当に理解されているのだろうか?
タイトルどおり、ニューヨークでの話。 だいたいこんな映画は、観念と倒錯の街ニューヨーク以外では考えられない。 主人公のケイデン(フリップ・シーモア・ホフマン)は、さえない舞台監督である。 彼には画家の妻がいるが、何となく疎遠である。 この妻アデル(キャスリーン・キーナー)も、またおかしい。 虫眼鏡で見なければ見えないほど、小さな絵を描いている。 娘のオリーヴ(セイディ・ゴールドスタイン)はまだ小さくて、周囲で何がおきているか分からない。 アデルはケイデンの才能に見切りを付けて、個展を口実にドイツへと娘を連れて逃げてしまう。 しかし、天才賞といわれるマッカーサー・フェロー賞が、彼におくられたことから話が変わってくる。 彼は膨大な賞金をつかって、巨大倉庫のなかに彼自身の頭のなかを再現しようとする。 話は止めもなく広がっていき、17年たっても舞台は完成せしない。 いつまでも稽古に終始している。 「マルコヴィッチの穴」や「エターナル・サンシャイン」の脚本を書いた監督だけあって、前2作の主題だった自分探しと自己相対化は深化している。 しかし、自分で監督をしないほうが良い。 登場人物を簡単に差し替え、自己相対化のためだろう、最後には自分自身まで別の人物が演じていく。 まずサミー(トム・ヌーナン)が自分のほうが、ケイデンよりケイデンを知っているので、役を代わろうと言いだす。 サミーがケイデンを演じていたが、サミーは舞台のセットから飛び降りて、ほんとうに自殺してしまう。 次に、男性であるケイデンを、女性のミリセント(ダイアン・ウィースト)が演じていくことになった。 この映画は自分捜しに結論を出している。 その結論は、誰でもみな同じで、全員分の幸せがあるという。 その反映がケイデンとミリセントの入れ替えだろう。 男性であるケイデンと、女性のミリセットが入れ替わっても、話は何の支障もなく進んでいくのだ。 舞台の話は、ケイデンの頭のなかの反映だから、現実の動きも描かれる。 これも人間関係がよくわからない。 関係と言うより、なぜ2人が好感を持つのか、離れていくのか、説得力がないのだ。 アデルと離婚するのは良いとしても、言い寄るヘイゼル(サマンサ・モートン)とは結婚せず、女優のクレア(ミシェル・ウィリアムズ)と結婚する。 ケイデンがヘイゼルに勃起しなかったとしても、それだけがクレアを選んだ理由ではないだろう。 この結婚も、もちろん破綻してしまう。 火事の家に住むヘイゼルだが、この火事の家というのがよく判らない。 いつ行っても、ヘイゼルの家は燃えており、火事なのだ。 しかし、誰も火事だと騒がないし、あわてる素振りも見せない。 それでいながら、ヘイデルが結婚した男性は、火事が原因で死んでしまう。 ケイデンの見ているテレビの中に、ケイデン自身が登場しても、幻覚だというのと同じなのだろうか。 それにしては、実際に人が死んでしまう。よくわからない。 ドイツに住んだアデルは、マリア(ジェニファー・ジェイソン・リー)とゲイの関係になる。 刺青を仕事とするマリアは、娘のオリーヴに身体に刺青をほどこし、見世物にする。 オリーヴは刺青がもとで死んでいくのだが、愛に目覚めさせてくれたのはマリアだといって、ケイデンを戸惑わせる。 アデルとマリアのゲイも判る。 この話と、自分の脳内を舞台化する話がつながらないのだ。 ケイデンの個人的な生活が、必然的に舞台化していくという流れが見えない。 マッカーサー・フェロー賞を受賞するのだって唐突だし、精神科の女医マドレーヌ(ホープ・デイヴィス)との関係もよくわからない。 一般に記憶や時間を扱うと、映画は特に難しくなる。 しかし、この映画は記憶も時間も、扱ってはいない。 強いて言えば、頭のなかを舞台化するのが、記憶を広げてみせる作業なのだろうか。 おそらく比喩がたくさん隠されており、ボクたちはその意味を共有していないから、この映画が判らないのだろう。 しかし、映画の作り方自体も、ずいぶんと平板だと思う。 流れが均一で、密度の濃さの違いがない。 そのため、2時間をちょっと越えるだけにもかかわらず、ずいぶんと長い映画に感じる。 脚本の着想の面白さは認めるにしても、映画化という点で失敗している。 年齢を重ねていくメイキャップが素晴らしい。 ケイデンは言うに及ばず、ヘイゼルも上手く老けていた。 ヘイゼルの入れ替わりになった、タミー(エミリー・ワトソン)も上手く老けていた。 難解な映画だが、ずいぶんと有名俳優がでている。 原題は「Synecdoche, New York」で、Synecdocheは一部で全体を表すよう提喩という意味だそうな。 2008年アメリカ映画 |
||||||||
|
||||||||
<TAKUMI シネマ>のおすすめ映画 2009年−私の中のあなた、フロスト/ニクソン 2008年−ダーク ナイト、バンテージ・ポイント 2007年−告発のとき、それでもボクはやってない 2006年−家族の誕生、V フォー・ヴァンデッタ 2005年−シリアナ 2004年−アイ、 ロボット、ヴェラ・ドレイク、ミリオンダラー ベイビィ 2003年−オールド・ボーイ、16歳の合衆国 2002年−エデンより彼方に、シカゴ、しあわせな孤独、ホワイト オランダー、フォーン・ブース、 マイノリティ リポート 2001年−ゴースト ワールド、少林サッカー 2000年−アメリカン サイコ、鬼が来た!、ガールファイト、クイルズ 1999年−アメリカン ビューティ、暗い日曜日、ツインフォールズアイダホ、ファイト クラブ、 マトリックス、マルコヴィッチの穴 1998年−イフ オンリー、イースト・ウエスト、ザ トゥルーマン ショー、ハピネス 1997年−オープン ユア アイズ、グッド ウィル ハンティング、クワトロ ディアス、 チェイシング エイミー、フェイク、ヘンリー・フール、ラリー フリント 1996年−この森で、天使はバスを降りた、ジャック、バードケージ、もののけ姫 1995年以前−ゲット ショーティ、シャイン、セヴン、トントンの夏休み、ミュート ウィットネス、 リーヴィング ラスヴェガス |
||||||||
|