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お金を払って、これほどの拷問を受けるとは、思ってもみなかった。 この映画を見続けることは、苦痛の一言に尽きる。 独りよがりで、身勝手な状況設定。 偶然の支配するご都合主義がまかり通る。 この監督は、商業映画を撮るのを止めたほうがいい。 訴えたいものを主題といい、主題をより良く伝えるためには、現実をデフォルメしても良いし、カリカチュライズしても良い。 だから「アキレスと亀」のように、汚れのない現実離れしたセットをつかっても良い。 しかし、この映画は、現代社会の不安を描こうというのだから、現実を精確に見なければならない。 エピソードのデフォルメは、主題をよく伝える範囲で許される。 にもかかわらず、この映画は現実の社会をを無視している。 もしくは現実に無知だとしか言えない。 なぜこんな映画ができてしまうのだろうか。 主人公の佐々木竜平(香川照之)は、大手企業に勤める40代のサラリーマンである。 彼は総務課長になっており、一戸建ての持ち家に住んでいる。 ところで、都内と思われるあんな場所に、一戸建ての家が買えるだろうか。 同じように失業した友人の黒須も、都内と思われる場所に、一戸建ての家をもっている。 せいぜい郊外の一戸建てか、マンションだろう。 同級生を登場させているのは、40代という世代を象徴しているのだろう。 とすれば、平均的な中年男性を想定すべきである。 これは後の2人の行動に関係するので、無視できない状況設定の間違いである。 佐々木夫妻は、2人の子供を持っている。 下の子供が、小学校の高学年になっていれば、妻の恵(小泉今日子)はパートにでているだろう。 長男が大学生であればお金もかかる。 普通の家庭なら、夫だけの収入でやっているはずはないし、今時の主婦なら家計を考えているはずである。 家族の食事場面が何度もでてくる。 40代半ばと思われる佐々木の食卓が、あんな空気で進むことはないだろう。 佐々木が1人でビールを飲んでいる間、他の家族は無言で待っていることはない。 親子の断絶を描くにしても、あれではリアリティがない。 団塊の世代と異なり、40代半ばの男性たちは、家庭での親子関係を大切にしており、親子で会話をしている。 主人公の佐々木竜平が、突然に会社を首になるが、あんな解雇の仕方はありえない。 総務部を中国へ外注するので、総務課長の佐々木は会社への貢献可能点を述べよ、可能点がなければ退職せよ、と上司がいう。 あれは明らかな労働基準法違反だし、いくら我が国の企業でも、あんな処遇はしない。 正社員を首にするには、退職金を割り増しして、まず希望退職者をつのる。 ましてや、課長を首にするには、破廉恥罪でもなければ不可能である。正社員は保護されているから、若者たちが正社員になりたがるのではないか。 この映画のようなことをやったら、不当解雇でたちまち組織が動かなくなる。 彼はホームレスとは生活場面が違ったのだから、あそこまで行くには相当な時間がかかるはずである。 しかも、トイレ掃除に躊躇する佐々木なら、ホームレスへの炊き出し食事を食べるにも、抵抗があるはずである。 こんなノッペラボウの人間描写はないだろう。 クビという人生の重大事であれば、佐々木はもっと複雑な心理状態に陥るはずだ。 いかにも居そうな人物設定をするから、観客はスクリーンに没入できるのである。 職業の状況としてもありえず、性格設定もいい加減では、物語が成立しない。 佐々木が炊き出しを食べているところを、妻の恵に見られてしまうが、あんな偶然はない。 これによって彼女は夫の失業を知るが、夫のプライドのために黙っている。 これはあり得るかもしれないが、黙っていることによる心理的な屈折があるはずだ。 にもかかわらず、彼女は何の変化も見せない。 ここをさかいに、演技が変わらなければおかしい。 最悪なのは、唐突に佐々木家に強盗が入り、恵が縛られてしまう。 冒頭で、開いた窓から雨が吹きかけ、佐々木が窓から入るシーンはある。 しかし、窓に鍵をかけないことが、強盗への伏線にはならない。 伏線というのは、物語の必然性のうえに成り立つのだ。 強盗が登場する必然性はまったくない。 強盗の出現の前後で、物語の作りがまったく変わっている。 ここまでは常識に従った展開をしてきたが、強盗にたいして恵は親近感を示し、解放されても警察に行かない。 ストックホルム・シンドロームもありうるだろうが、ここまでの映画の前提では成り立たないのだ。 リアリティを前提とするのか、寓話的な話にふるのか、この監督はその区別が付いていない。 子供が無賃乗車で逮捕され、警察に連行される場面がある。子供は黙秘を続け、刑事は成人と同じ扱いだといって、留置場に一晩留置する。 これもないだろう。 小学生であるにもかかわらず、福祉課への連絡すらしない。 また留置場がすさまじいもので、小窓の付いた鉄扉のなかには、10人以上が収容されている。 どこの留置場かわからないが、看守から中を一望できない留置場などあり得ないし、1部屋に10人以上も留置することはないだろう。 留置されている人たちが全員立っていたが、立っているのは禁止で、正座か安座のはずである。 留置場の現実を無視したのは、どんな意味があったのか。 意味はなく、思いつきだとしか感じられない。 海辺に見たような小屋が登場すれば、そこへ連れ込むことは簡単に予測できてしまう。 そこで恵を強姦しようとするに至っては、もう滅茶苦茶で映画になっていない。 そのうえ、海辺にたつ恵の無意味な無言の長いシーン。 無意味で何も表現していない映像を見せられるのは苦痛である。 車に跳ねられた佐々木が、一晩路上に放置され、朝になると何事もなかったかのように帰宅する。 そして、強盗から解放された恵と子供の3人で、いつもと同じように食事をする。 3人が3人とも、特異な体験をしてきたのだから、こんな風景になるはずがない。 不安定な現代家族のあり方や、そこで生活する不安のようなものを描くのかと思っていたら、人生をやり直したいというのが主題になった。 佐々木も恵も身もだえしながら、やり直したいと言うが、彼(女)らの人生の何をやり直したかったのか、まったく伝わってこない。 すべてやり直したいという言葉とは裏腹に、子供の入学試験には夫婦そろって出かける。 これがやり直しなら、また同じ結果になる。 この監督は、佐々木たちがやり直しても、同じ結果になるといいたかったのだろうか。 長い長いピアノ演奏のシーンを考えれば、そんなことはないだろう。 この監督は55才になったはずだが、現実の社会を知らないし、人間観察眼がまったくない。 個別的なカットを撮ることはできても、映画という物語を撮ることのできない人間である。 10年前の「ニンゲン合格」にも、同じような評を書いているので、見に行ったこちらが悪かったのだろう。 しかし、彼が芸大映像科の教授だってことは、日本映画は今後もダメだということだろう。 2008年日本、オランダ、香港映画 (2008.10.09) |
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