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問題意識は鋭いが、いかにも日本的な映画である。 森田芳光の「家族ゲーム」を思い出させる。 家庭の崩壊というより、父親と子供の断絶を描いて、訴えるものがある。 家庭に子供の居場所がなくなったと言われるが、それは自明のこととして、話が始まっている。
愛知県豊川に住む親子4人の家族、島原家があった。 父親の徹三(光石研)は地元の新聞社に勤務し、母親の妙子は専業主婦。 子供は女子高校生の紀子(吹石一恵)と、ユカ(吉高由里子)である。 紀子は自分探しで悩んでいたところ、廃墟ドットコムというサイトにであい、彼女は癒される。 そこは上野駅54ことクミコ(つぐみ)という女性が仕切る、<家族サークル>という裏企業だった。 日常に自己確認の手がかりのない紀子が、まず家出をしてクミコに会いにいく。 家族サークルとは、家族を演じてお金を貰う企業だが、これは実際にあり得るだろう。 依頼者自身のためであればエスコート・クラブだろうし、依頼者が第三者に家族を見せたいときには、自分の妻とか父親とか娘を演じてもらうことになる。 現実の生活のなかで、家族を演じてもらう必要はあるはずだ。 ホームに横一列になった女子高校生が、入ってくる電車に飛び込むのは、 「自殺サークル」という彼の他の映画で使われた画像らしい。 一種のクリッピングで、それはまったく問題ない。 女子高校生の集団自殺とは、いかにもありそうな我が国の心的状況である。 この監督は、高校生たちの閉塞状況の原因を、父親との断絶に求めていく。 現状認識は実に鋭くて、女子高校生の現状はこの映画のようだろうし、 家庭内での意志疎通の齟齬もこのとおりだろう。 しかし、人間観察が表面的にすぎるように感じる。 子供の心的状況はこのとおりだとしても、 徹三の父親を演じる姿は、あまりにも良き父親でありすぎる。 多くの父親は徹三のように一生懸命には、子供との関係を維持しようとする努力をしないのではないか。 父親が勝手すぎると紀子に言わせているが、 少なくとも、この父親は自分が良いと思う父親像を、必死で演じている。 子供たちにとっては、押しつけかも知れないが、徹三のかくあれと思う父親像を演じている。 演じる父親像は、自分が良しとする父親像でしかあり得ないのは当然で、 誰だって否定的な父親像など演じることはできない。 だから、徹三個人の問題ではなく、現在の父親たちがおかれている社会的な位置を、あぶり出すべきなのである。 篠崎誠の「おかえり」などを思い返しても、我が国の映画は、現状をよく見てはいる。 問題点がどこにあるか、理解する能力は充分にある。 しかし、問題を個人の問題として捉えてしまい、社会のなかにおいて考える力が弱い。 2人の子供が家出したことは、自分の責任だとして、 母親がウツになり自殺してしまう。 妻が死んだにもかかわらず、父親は妻の死よりも、父親は子供の家出に執着する。 娘が原因で母親が自殺するのは珍しい。 これはちょっと現実離れしている。 しかし、娘の家出に対して、この父親の反応はありそうな話である。 妻ではなく子供を見る。 これが日本的な現実だろう。 問題はここにある。 1対の男女がきちんと対面せず、ただ夫役割と妻役割を果たす男女が存在する。 それが日本的な夫婦関係である。 夫婦の心のつながりが弱く、夫婦は夫と妻という役割を果たすだけだから、 子供が夫婦関係から排除されない。 夫と妻の男女関係が薄いので、むしろ母親と子供のあいだに、親子の癒着した関係ができてしまう。 そのため、子供は夫婦の関係のなかに、社会性を見ることができない。 1組の男女が心から愛しあっている、それが子供の心に愛を教え、信頼を育む。 にもかかわらず、我が国の男女は、 夫という役割をはたし、妻という役割を果たしているにすぎない。 しかも、良き夫、良き妻を演じているのだ。 良き夫、良き妻を演じれば演じるほど、子供も良き子供を演じることになる。 演ずることが息苦しくても、大人は演技を続けることができる。 そして、本音をどこか別の場所で発散できる。 しかし、子供は本音と演技の使い分けができない。 子供の演技だけを演じることになる。 本音の言えない演技を続けることは、じつに息苦しい。 当然のこととして、やがてほころびが出る。 ほころびの表現される形は、ひきこもりだったり、家庭内暴力だったり、家出であったりする。 父親らしく母親らしくあれば、円滑に生きることができた農業社会では、家族の一員らしくあればよかった。 しかし、核家族になったときに、個人は裸になるべきだった。 男は黙って○○ビールではなく、喜怒哀楽を素直に表現することを肯定すべきだった。 我が国では、大家族的な役割がいまでも肯定されており、 家族の一員らしくあることが是とされるが、らしくある必要はない。 夫である前に男であり、妻である前に女である。 男女は照れていないで、愛情表現をすべきである。 子供に対してではない。 男が女に対して、女が男に対して、心の内をさらけ出すべきなのだ。 大人たちにそれができなから、子供は心を開く術を身につけることができない。 子供は放っておいても育つ。 夫と妻は、男女関係を見なおすべきだ。 家族ゲームをおこなうが、これは無理だ。 徹三は父として、何が違っていたのか判っていないし、どんな人間像を演じればいいのか、無自覚なままだ。 それに子供たちにしても、この家族の中では、何の役割もない。 現在のような核家族のなかで、家族の構成員が演じる役割は、すでになくなっている。 核家族のなかでは、父親は稼いでくればいいのだし、子供は勉強して良い成績をとれば良い。 他には何の役割もない。 こうした役割に生きようとすれば、家族が空白化するのは当然である。 子供は父親をシミュレーションできたが、父親は子供をシミュレーションできないと嘆く必要はない。 徹三が嘆くべきは、妙子と心の関係が作れずに、彼女を死なせてしまったことだ。 この映画の状況が外国であったら、妙子は自殺せずに、速攻で離婚しているだろう。 両親が離婚すれば、子供は否が応でも、大人の関係からはじき出されて自立する。 家族役割をはたせという、強い社会的な強制が、家族の構成員たちを無気力へと追い込んでいる。 愛を口にしないという意味では、この監督も正真正銘の日本人である。 撮影技術的には、言いたいことはたくさんあるが、 逆光で顔がつぶれたりや色斑などは、この画面表現を狙っていたのだろう、と理解しよう。 画面で説明されていることは、あらためて台詞にする必要はない。 脚本が未消化で、もっと推敲して、無用な台詞を削るべきだ。 そして、30分くらい切り詰めて、短くしたほうが良い。 ユカを演じた吉高由里子の発音が不明瞭だった。 2005年日本映画 (2006.9.29) |
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