タクミシネマ        ダ・ヴィンチ コード

ダ・ヴィンチ コード    ロン・ハワード監督

 鳴り物入りで宣伝されているが、それほど良い映画だとは思えない。
まず、映画が謎解きに終始し、人間性や人生の機微といったものを、まったく描いていない。
そして、フランス人役者の演技が、すこぶる下手である。
しかも、露光不足で発色が悪い場面が何度もあって、メジャーの映画とは思えない。

THE DA VINCI CODE(DVD)
劇場パンフレットから

 ルーブル美術館に撮影カメラが、はじめて入ったというが、
ルーブル美術館の再現はセットでも充分に可能である。
むしろ、映画撮影にとっては、本物のルーブル美術館は障害が多いだけだろう。
この映画に登場した絵画たちは、撮影用の強い照明を当てているから、複製に違いない。
また、フィルムを通しているので、実物である必要性はまったくない。
おそらく部分的にはセットを組んでいるだろう。 

 ルーブル美術館の館長ソニエールが殺された。
その殺され方が猟奇的だったので、
たまたまパリにいたアメリカ人のラングドン(トム・ハンクス)が、犯人と疑われる。
彼は、訳ありのファーシュ刑事(ジャン・レノ)に、しつこく追われる。
しかし、ソニエールの孫娘ソフィー(オドレイ・トトゥ)が、ラングドンを助けて、2人で逃走を図る。


 殺人と絡んで、モナリザに隠された秘密がある。
それを解明しながら、2人は旧友のサー・リー・ティービング(イアン・マッケラン)のもとへと向かう。
バチカンの関係者が絡んだり、狂気的なクリスチャンが絡んだりと、お話は広がっていく。
しかし、結局のところサー・リー・ティービングが、黒幕だったという結末である。 

 謎解きが好きな人には、向きの映画かも知れないが、この程度の謎解きはいくらでもある。
むしろ古い時代背景を使っているので、純粋な謎解きというより、
ルーブル美術館コンプレックスというか、モナリザ・コンプレックスといった感じがする。
歴史の浅いアメリカ人は、どうしてもヨーロッパに劣等感があるらしい。
話の内容ではなく、舞台設定で売っているようだ。

 ジャン・レノの走るシーンがあるが、極めつきの鈍足で、運動神経がまったく感じられない。
トム・クルーズのように走れとは言わないが、
俳優はそこそこに運動神経が良いだろうに、あの運動音痴には目を疑った。
それに彼は演技が下手である。

 最近の演技は、自然な表情のなかに精神の動きを表現するが、これがまったくできていないのだ。
ほとんど表情に変化がなく、この刑事には心理的な葛藤がないかのようだ。
ファーシュ刑事は自分も、秘密教団に絡んでいるのだから、
もっともっと葛藤があるはずである。
後半になっても、表情に何の変化もないのは、演技の下手さ以外の何ものでもない。

 ソニエールの孫娘ソフィーが、なぜ最初からラングドンの無実を知っていたのか。
この説明がないままに、物語が始まってしまった。
また彼女の職業は暗号解読官だというが、彼女の能力はほとんど発揮されないままに終わる。
今時の映画では、女性の活躍が定番だが、
この映画ではトム・ハンクスに引きずられっぱなしである。

 ジャン・レノは演技が下手だったが、
ソフィーを演じたオドレイ・トトゥが、これまた下手なのである。
常に変わらぬ硬い表情、セリフの棒読み。
英語が下手なのは仕方ないとしても、言葉以前の問題だろう。
アメリ」では好評を博したが、今回はダメだった。
フランスには演技のできる役者がいないのだろうか。

 それに対して、イギリス人たちは上手かった。
シラス修道僧を演じたポール・ベタニーも上手かったし、
サー・リー・ティービングを演じたイアン・マッケランは、もっと上手かった。
出演者たちは、全員が英語を理解しているから、たんに言葉の問題だけではないと思う。
おそらくフランスと英語圏の俳優では、演じたかが違うのだろうが、
俳優の演技から見ただけでも、フランス映画の低迷がよくわかった。

 ルーブル美術館の中庭には、ガラスのピラミッドができた。
これはアメリカ在住の建築家ペイの設計になるものだ。
冒頭でラングドンが、このピラミッドを褒めると、
ファーシュ刑事からパリの汚点だ、という返事が返ってくる。
停滞しているフランス人らしい、いかにも言葉で、これは面白かった。


 この映画の字幕は、有名な戸田奈津子さんが担当している。
字幕翻訳者の責任というより、我が国の言葉の問題だが、
差別語を禁止するあまり、正確な翻訳もできなくなってしまったのは、大いに疑問がある。
サー・リー・ティービングにたいして「cripple」と罵倒するシーンがあったが、
それを「ジイ様」と訳していた。
これは「びっこ」と訳すべきではないか。

 優れた映画である「暗い日曜日」の中でジプシーといっていても、
ジプシーという言葉が差別語だといわれると、ロムと言い換えてしまう。
我が国には、ジプシーはいないにもかかわらず、差別語だというだけで言葉を換えてしまう。
これは原作者に対する差別であり、表現を歪曲化していると言わざるを得ない。
その言葉を使わないようになっても、差別の実態はまったく変わらず、
むしろ差別を隠蔽するだけである。  

 単語自体に差別意識が潜んでいるわけではなく、
その言葉を使う精神に差別が込められているのだ。
だから、映画で差別語が使われているからといって、それを違う言葉に置き換えてしまうのは、
結局、自分の首を絞めることになっていく。
1つの言葉を使わせないことによって、精神の自由を1つ失うことになり、それだけ差別を拡大することになる。

 2つドアのスマートが使われていた。
車の世界でも、フランスはどうしてしまったのだろう。
イギリスは工業製品の製造からは降りてしまったようだが、
フランスはまだ健闘しているつもりだろうから、スマート以外のフランス車を見たかった。
  2006年アメリカ映画
(2006.5.23)

 上記の評論を読んだ方から、この評論に好意的なご感想をいただいた。
その文章のなかで、「全体に描写・説明が不足している割には、観客の想像力にほとんど期待していない作品でした」と、記されていたのがとても印象的だった。
当方も、この映画が観客の想像力に期待していないというのに、まったく同感である。

 映画は、当然のことながら、観客に見られることを前提にしている。
だから、制作者は観客の想像力に期待して、映画を撮っているはずである。
観客の想像力に期待しないとは、ほんとうに勿体ない映画製作である。
(2006.05.31)

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