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グッドナイト アンド グッドラック
ジョージ・クルーニー監督

 マッカーシー旋風が吹き荒れた1950年代のアメリカでの話。
多くのマスコミが沈黙するなかで、CBSのニュース・キャスターのエド・マロー(デヴィッド・ストラザーン)と、
プロデューサーのフレッド・フレンドリー(ジョージ・クルーニー)は、マッカーシーに敢然と挑戦した。
共産主義に反対するのは、もちろん大切だ。
しかし、人権と法の適正手続きを守ることは、それ以上に大切である、と。

グッドナイト&グッドラック [DVD]
劇場パンフレットから

 映画自体は、それなりにまとまっている。
登場する舞台は、スタジオだけといっても良いくらいだが、映像も美しく緊張感を持続している。
そして、CBS会長であるウィリアム・ベイリー(フランク・ランジェラ)の苦悩。
同僚のニュース・キャスター(レイ・ワイズ)の自殺と、資本主義社会で、報道や言論の自由を守ることがいかに難しいか、それも良く伝えている。

 この映画が良心として描いた風景は、現代ではCNNからFOXへと換骨奪胎されてしまった。
しかし、この映画はエドの業績が言いたいのではない。
ほんとうに訴えたいところは、現代のブッシュ大統領批判であろう。
アフガニスタンやイラクの戦争に、好意的な報道が多く、アメリカでは本当のことが言えなくなった。
マッカーシーと同じことをブッシュ政権がやっていると、この映画は民主主義の基本原理を訴える。
自由主義こそ最も過激な思想である。


 全編モノクロの映画だが、今時モノクロにするには、それなりの理由がある。
時代との相関関係を表現する、これが最も大きいだろう。
と同時に、制作者たちはモノクロの美しさも、充分に気にしていたはずである。
冒頭のタキシード姿とドレス姿のシーンは、黒がこっくりしていて実に美しい。
黒がまったくつぶれておらず、色調の微妙な違いまで、画面に再現されている。

 黒のタキシードは、やはり白人たちのものだ。
白い皮膚にこそ、黒のタキシードはよく似合う。
そして、アイロンがけされた白いワイシャツも、黒のタキシードには良く合う。
この映画に登場するのは、すでに半世紀以上も前のファッションだから、今よりずっと格式張ったものだ。
それでも彼等の礼服は、いまだ大きな変化をしていない。

 この半世紀で、我が国の礼服は、紋付き羽織袴から黒の背広に変わってしまった。
我が国にあるのは、いったい何なのだろうか。
伝統主義者でも、いまや着物は着ない。
着物を失った私たちは、ほんとうに植民地化されてしまった感じである。
当然のことながら、新たな様式など獲得できていない。
白人たちのタキシード姿を見るたびに、実に寂しい思いに駆られる。

 映画の話に戻れば、アメリカはこの50年で、偉大な改革を成し遂げた。
それがこの映画でよく判る。
この映画は、ジャーナリストの良心を訴えるが、
それ以上にこの映画が雄弁に物語るのは、ニュース・キャスターの同僚として、黒人がまったく登場していないことだ。
1950年代は、いまだ人種差別が横行し、黒人は市民的な職業には就けなかった。

 この映画では、黒人の上手いジャズ歌手(ダイアン・リーヴス)が登場するが、
当時はこうした部門でだけ、黒人は辛うじて職業人たり得たに過ぎなかった。
そして、この映画には女性も、脇役として1人しか登場しない。
今日なら女性も主役であり、こうした風景はもはや存在しない。
白いワイシャツの男たちだけが、職場を独占していた時代、それが1950年代だった。

 それから半世紀、「ステップフォード・ワイフ」などでも判るように、
アメリカの職場には多くの黒人や女性が進出した。
白いワイシャツはすたれ、ジーンズやtシャツ姿が繁殖したが、
職場には様々な人間が登場できるようになった。
格式は廃れ、そして、人間はずっと自由になった。
白いワイシャツを好む男性たちには、無秩序が横行する時代に見えるかも知れないが、
黒人や女性の社会的な参入は、無秩序を補って余りあるものをもたらしてくれた。
衆愚の時代といわれようと、黒人や女性のいない職場は不気味である。


 去年だったか、アメリカの多くの男性記者を後目に、
黒人女性記者がニュースソース秘匿のために、監獄行きを選んだ。
この映画が語るのは、スクリーンに映さないものだ。
今さらエド・マローを賛美する、そんなことがこの映画の訴えたいことではないように、
歴史と現代を、何かを撮さないことによって表現しようとしている。

 描かないことによって何かを描いている。
そう感じるのは、反対に撮すことによって、廃れたものを描いているからだ。
それは、喫煙の習慣である。
モノクロの画面は、煙草の煙が強調される。
ワイシャツ姿の男性たちは、誰もが常に煙草をくわえていた。
たくさんの紫煙を描くことによって、喫煙の習慣が廃れたことを描いているのだ。
だから、反対に撮さないことによって、描いていることも見えるのだ。

 ジャーナリズムの責任は、何を取り上げるかだけではなく、
何を取り上げなかったかでもある、とはエドのセリフである。
だからエドやフレッドは、自腹を切ってまで、マッカーシー批判に手を付けたのだ。
そう考えるとき、この映画が黒人や女性を登場させていないことには、明らかな意味があるとわかる。  

 この半世紀で、アメリカは男女そして白人と黒人を解放した。
公民権運動とフェミニズムは、アメリカが生み出したものだ。
思想のないと言われたアメリカで、フェミニズムが誕生したことは、
人類の半分を解放したのだから、どんなに強調しても強調しすぎということはない。
フェミニズムは20世紀アメリカが生んだ最大の思想であり、後世の人はアメリカのフェミニズムと讃えるだろう。

 この映画の主張はよく判ったので、多くの美点を並べた。
ジョージ・クルーニーの熱意もわかる。
しかし、この映画は正義の主張に終始している。
当サイトもこの主張に賛成し支持するが、表現として映画を見るとき、正義の主張は息苦しくも感じる。
そのため、この映画には、あえて星は付けない。  2005年アメリカ映画
 (2006.5.03)

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