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情報社会では労働が脱性化するので、女性の社会進出を要求する。 そのため、アメリカ女性の社会進出は、止まるところを知らない。 男女平等は女性に機会も与えるが、男性と同じように成果を出すことも要求する。 「恋愛適齢期」でも描かれていたが、アメリカの女性たちは、徹底した平等要求に、いささかの悲鳴を上げているようだ。 男性から塩を送られた、といった映画だろうか。
男女が不平等だった時代、男性と女性は競争相手ではなかった。 当時は男女が、それぞれに自分の役割を果たしていれば良かった。 しかし、平等な社会は、競争社会でもある。 男女が平等になれば、男女は競争相手である。 遅れてきた女性には、多くの障害があるにもかかわらず、女性を完全に平等と扱う流れは止まらない。 男女平等とは女性に厳しい社会である。 主人公のジョアンナ(ニコール・キッドマン)は、テレビ会社の重役である。 男性たちを後目に、たいそうな出世だった。 しかし、彼女が手がけた番組の出演者から、訴訟が起きそうになった。 ここで訴訟が起きたら、テレビ局はつぶれてしまう。 訴訟を防ぐために、経営者は彼女の首を切って、その難局を乗り切ろうとする。 彼女は黙って引き下がる。 しかし、内心では納得できずに、落ちこんでしまう。 そこで夫のウォルター(マシュー・ブロデリック)が、引っ越しを提案する。 引っ越し先は、天国のような理想の住宅地ステップフォードだった。 2人の子供とともに、ステップフォードへと移住すると、そこは1950年代のような世界だった。 「輝ける家族像とは」でも書いたとおり、男性は外の仕事、女性は家事と、性別役割がきっちりと確立しており、まるで「アイ ラブ ルーシー」の世界そのものだった。 この街を仕切るのは、元天才キャリアウーマンのクレア(グレン・クローズ)だった。 彼女はメイキャップした顔に、カラフルなワンピース姿で、元気よく街を闊歩していた。 男性だけの稼ぎで、中流階級の生活が維持できない今日では、こんな街が成立するはずがない。 この住宅地成立の裏には、クレアの実体験に基づく悲しい話があった。 超優秀だったクレアは、仕事に没頭していたあるとき、夫が自分の補助者と浮気していることを知る。 仕事で評価されても、夫が自分から離れて浮気をしたら、まったく幸福ではない。 そこで自分の幸せは、仕事ではなく家庭生活にあると考えた。 クレアは性別役割が生きていた1950年代の街を、ステップフォード(前進といった意味だろうか?)という住宅地で実現しようとする。 こんな時代錯誤に賛同する女性はいない。 そこで彼女は、女性たちの頭脳にコンピューターを仕込んで、男性に従順で上品な女性たちを作り出した。 そこへ移住したジョアンナたちは、最初こそご機嫌だった。 しかし、その不自然さに耐えられなくなる。 結局、彼女たちの活躍が、そのカラクリを暴き出す。 コンピューターをオフにすると、女性たちはかつての意識を取り戻し、現代社会に戻るという結末である。 この物語は見ようによっては、一種のバック・ラッシュでもあろう。 1972年に上梓された原作が、1975年に映画化されたときは、主題はおそらくウーマンリブ批判だったであろう。 あの時代、反撃ののろしを上げた女性たちには、真正面から逆風が吹いていた。 しかし、情報社会化する時代の流れは、女性たちを後押しした。 脱性化した労働市場は、女性たちを歓迎したのである。 フリルのついたワンピースを着る女性など、今や職場にはいない。 今日でも男女差はあり、職場においても性差ははっきりとある。 しかし、フェミニンな嗜好を良しとする傾向は、こと職場に限っては絶滅したと言っていい。 イギリス生まれのこの監督は、すでに60歳を過ぎており、昔を懐かしむ気持ちがあるようだが、むしろ女性たちを痛々しく同情的に見ているようだ。 競争が支配する職場で、孤独と戦って生きていくのは、男性だけでいい。 女性まで競争に明け暮れることはないではないか。 この映画から、そんな思いやりを感じはするが、そうした思いやりがすでに差別である。 女性を男性とまったく同じに扱うことが、真摯な態度であり、男女平等なのである。 アメリカにだって女性の重役などいなかったし、彼我の事情はまったく変わらなかった。 我が国が男女別だった程度には、アメリカだって男女別だった。 いやむしろ、レディーズファーストがあった分、アメリカのほうが差別的だったかもしれない。 この50年間でいかに差がついてしまったことか。 男性から同情されるほど猛烈に働き、孤独にさいなまれるアメリカ女性たちだが、我が国では女性が、孤独を感じ得ることは想像できない。 平等がもたらす過酷な競争に、我が国の男性も女性も、思いが及ばないだろう。 この映画は、男女が性別役割に生きた長閑な時代があった、ということを教える最後の作品だろう。 女性の孤独が、無視し得ない状況になっているから、こうした映画が撮られるのだろうが、それでも情報社会化は止まらない。 イギリスで始まった産業革命が、世界へと伝播したように、情報社会化は世界へと拡がっている。 アメリカが情報社会化から降りたら、たちまち他の国に負けるだろう。 経済戦争で他の国に負けたら、現在のような豊かな生活は維持できない。 ビーバー人形のような、華やかな女性たちが登場するが、今やこうした女性たちは魅力的に見えない。 むしろ、白人の横柄さに無頓着で、無知な女性たちに映る。 黒い服に身を包んだ、鼻っ柱の強いニコール・キッドマンや、品のないデブのベット・ミドラーのほうが、はるかに魅力的である。 この映画は、そのあたりの空気もよく伝えている。 (2005.02.03) |
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