タクミシネマ       ステップフォード・ワイフ

ステップフォード・ワイフ   フランク・オズ監督

 情報社会では労働が脱性化するので、女性の社会進出を要求する。
そのため、アメリカ女性の社会進出は、止まるところを知らない。
男女平等は女性に機会も与えるが、男性と同じように成果を出すことも要求する。
「恋愛適齢期」でも描かれていたが、アメリカの女性たちは、徹底した平等要求に、いささかの悲鳴を上げているようだ。
男性から塩を送られた、といった映画だろうか。

ステップフォード・ワイフ [DVD]
劇場パンフレットから

 男女が不平等だった時代、男性と女性は競争相手ではなかった。
当時は男女が、それぞれに自分の役割を果たしていれば良かった。
しかし、平等な社会は、競争社会でもある。
男女が平等になれば、男女は競争相手である。
遅れてきた女性には、多くの障害があるにもかかわらず、女性を完全に平等と扱う流れは止まらない。
男女平等とは女性に厳しい社会である。

 主人公のジョアンナ(ニコール・キッドマン)は、テレビ会社の重役である。
男性たちを後目に、たいそうな出世だった。
しかし、彼女が手がけた番組の出演者から、訴訟が起きそうになった。
ここで訴訟が起きたら、テレビ局はつぶれてしまう。
訴訟を防ぐために、経営者は彼女の首を切って、その難局を乗り切ろうとする。 


 高い能力ゆえに彼女は抜擢されてきたので、状況に合わない能力と評価されれば、解雇されても文句は言えない。
彼女は黙って引き下がる。
しかし、内心では納得できずに、落ちこんでしまう。
そこで夫のウォルター(マシュー・ブロデリック)が、引っ越しを提案する。
引っ越し先は、天国のような理想の住宅地ステップフォードだった。

 2人の子供とともに、ステップフォードへと移住すると、そこは1950年代のような世界だった。
輝ける家族像とは」でも書いたとおり、男性は外の仕事、女性は家事と、性別役割がきっちりと確立しており、まるで「アイ ラブ ルーシー」の世界そのものだった。
この街を仕切るのは、元天才キャリアウーマンのクレア(グレン・クローズ)だった。
彼女はメイキャップした顔に、カラフルなワンピース姿で、元気よく街を闊歩していた。

 男性だけの稼ぎで、中流階級の生活が維持できない今日では、こんな街が成立するはずがない。
この住宅地成立の裏には、クレアの実体験に基づく悲しい話があった。
超優秀だったクレアは、仕事に没頭していたあるとき、夫が自分の補助者と浮気していることを知る。
仕事で評価されても、夫が自分から離れて浮気をしたら、まったく幸福ではない。
そこで自分の幸せは、仕事ではなく家庭生活にあると考えた。

 クレアは性別役割が生きていた1950年代の街を、ステップフォード(前進といった意味だろうか?)という住宅地で実現しようとする。
こんな時代錯誤に賛同する女性はいない。
そこで彼女は、女性たちの頭脳にコンピューターを仕込んで、男性に従順で上品な女性たちを作り出した。
そこへ移住したジョアンナたちは、最初こそご機嫌だった。
しかし、その不自然さに耐えられなくなる。

 ジョアンナにもコンピューターを植え込もうとされたが、夫のウォルターはジョアンナをロボット化することはできなかった。
結局、彼女たちの活躍が、そのカラクリを暴き出す。
コンピューターをオフにすると、女性たちはかつての意識を取り戻し、現代社会に戻るという結末である。

 この物語は見ようによっては、一種のバック・ラッシュでもあろう。
1972年に上梓された原作が、1975年に映画化されたときは、主題はおそらくウーマンリブ批判だったであろう。
あの時代、反撃ののろしを上げた女性たちには、真正面から逆風が吹いていた。
しかし、情報社会化する時代の流れは、女性たちを後押しした。
脱性化した労働市場は、女性たちを歓迎したのである。


 フリルのついたワンピースを着る女性など、今や職場にはいない。
今日でも男女差はあり、職場においても性差ははっきりとある。
しかし、フェミニンな嗜好を良しとする傾向は、こと職場に限っては絶滅したと言っていい。
イギリス生まれのこの監督は、すでに60歳を過ぎており、昔を懐かしむ気持ちがあるようだが、むしろ女性たちを痛々しく同情的に見ているようだ。

 競争が支配する職場で、孤独と戦って生きていくのは、男性だけでいい。
女性まで競争に明け暮れることはないではないか。
この映画から、そんな思いやりを感じはするが、そうした思いやりがすでに差別である。
女性を男性とまったく同じに扱うことが、真摯な態度であり、男女平等なのである。

 それにしても1960年頃は、アメリカも我が国も男女が不平等だった。
アメリカにだって女性の重役などいなかったし、彼我の事情はまったく変わらなかった。
我が国が男女別だった程度には、アメリカだって男女別だった。
いやむしろ、レディーズファーストがあった分、アメリカのほうが差別的だったかもしれない。
この50年間でいかに差がついてしまったことか。

 男性から同情されるほど猛烈に働き、孤独にさいなまれるアメリカ女性たちだが、我が国では女性が、孤独を感じ得ることは想像できない。
平等がもたらす過酷な競争に、我が国の男性も女性も、思いが及ばないだろう。
この映画は、男女が性別役割に生きた長閑な時代があった、ということを教える最後の作品だろう。

 女性の孤独が、無視し得ない状況になっているから、こうした映画が撮られるのだろうが、それでも情報社会化は止まらない。
イギリスで始まった産業革命が、世界へと伝播したように、情報社会化は世界へと拡がっている。
アメリカが情報社会化から降りたら、たちまち他の国に負けるだろう。
経済戦争で他の国に負けたら、現在のような豊かな生活は維持できない。

 ビーバー人形のような、華やかな女性たちが登場するが、今やこうした女性たちは魅力的に見えない。
むしろ、白人の横柄さに無頓着で、無知な女性たちに映る。
黒い服に身を包んだ、鼻っ柱の強いニコール・キッドマンや、品のないデブのベット・ミドラーのほうが、はるかに魅力的である。
この映画は、そのあたりの空気もよく伝えている。
(2005.02.03)

TAKUMI シネマ>のおすすめ映画
2009年−私の中のあなたフロスト/ニクソン
2008年−ダーク ナイトバンテージ・ポイント
2007年−告発のときそれでもボクはやってない
2006年−家族の誕生V フォー・ヴァンデッタ
2005年−シリアナ
2004年−アイ、 ロボットヴェラ・ドレイクミリオンダラー ベイビィ
2003年−オールド・ボーイ16歳の合衆国
2002年−エデンより彼方にシカゴしあわせな孤独ホワイト オランダーフォーン・ブース
      マイノリティ リポート
2001年−ゴースト ワールド少林サッカー
2000年−アメリカン サイコ鬼が来た!ガールファイトクイルズ
1999年−アメリカン ビューティ暗い日曜日ツインフォールズアイダホファイト クラブ
      マトリックスマルコヴィッチの穴
1998年−イフ オンリーイースト・ウエストザ トゥルーマン ショーハピネス
1997年−オープン ユア アイズグッド ウィル ハンティングクワトロ ディアス
      チェイシング エイミーフェイクヘンリー・フールラリー フリント
1996年−この森で、天使はバスを降りたジャックバードケージもののけ姫
1995年以前−ゲット ショーティシャインセヴントントンの夏休みミュート ウィットネス
      リーヴィング ラスヴェガス

「タクミ シネマ」のトップに戻る