タクミシネマ        恋愛適齢期

 恋愛適齢期    ナンシー・メイヤーズ監督

 1992年に上梓した「性差を越えて」で、「女性にとって、きびしい状況が迫っている」と書いた。
「工業社会まで、女性は産んだ子の母親であることによって、男性に対する地位を主張できた」が、自立をめざした女性には、子供が自己の存在証明とはならない。
自立した女性は、裸の個人である。
だから女性の自立は、女性に大きな可能性も開くが、同時に厳しい状況をもたらすのは必然である。

恋愛適齢期 [DVD]
劇場パンフレットから
 我が国の20〜30年先を行くアメリカで、女性が自立しつあるのは周知だろう。
厳しい状況にフェミニストらしき女性監督は、いささかの音を上げているのが、この映画だと思う。
女性が自立した結果、女性も多くの収入を手にし始め、男性の稼ぎに頼らずにも済むようになった。
いまや女性に経済力があるので、離婚へのためらいがなくなった。
その結果、大きく離婚が増えた。
いまでは、2組に1組が離婚する。
この監督も離婚している。


 この映画の主人公エリカ(ダイアン・キートン)も、離婚している。
彼女は自分の脚本が売れたので、ニューヨークの郊外に豪勢な別荘を構えて、大金持ちの生活を満喫している。
しかし、年老いてくると、男たちは誰も見向きもしなくなってきた。
男性はお金があれば、歳をとっても、若い女性との恋愛遊戯を楽しめるが、女性には男性が寄ってこない。
寂しく一人、大きなベッドで夜を迎える日が続く。

 女性が個人化したのを証明するかのように、30歳になる娘のマリン(アマンダ・ピート)は、63歳のハリー・サンボーン(ジャック・ニコルソン)と、恋愛関係にあった。
エリカの別荘で、ハリーが心臓発作で倒れたのをきっかけに、マリンからエリカへと恋愛関係が入れ替わる。
エリカは最初こそ戸惑うが、男日照りの日々だったので、新らた男性の登場は天にも昇るものだった。

 自立はしたけど、孤独な毎日。
こんなはずではなかった。
自立の先には楽しいことがあると、想像していたのに、厳しい孤独が襲ってくる。
いままで、男性の経済力に守られていたので、自立せずに済んだ。
かつては男性たちも離婚しようとはしなかった。
毎日夫は帰宅し、形式だけだったかも知れないが、男性たちは女性に優しかった。
しかし、困難を覚悟で、アメリカの女性は自立した。

 自立こそ、1人前の人間になることだった。
対等になった男女間では、それぞれが自分の好みで生きる。
女性が望んだ地位が手に入った。
しかし、離婚できるようになった今、男たちは中高年女性には目もくれない。
女性にも男性に対する好みがあるように、男性の女性に対する好みにも、文句は言えない。
恋愛の自由市場では、男女に立場の違いはない。
 

 監督、脚本、製作を一人で手がけた映画監督は、「歌追い人」を撮ったマギー・グリーンウォルド氏等と同様に、古いタイプのフェミニストで、実現してしまった現実に戸惑っている。
エリカの元夫も、娘と2つ違いの若い女医さんと再婚する。
それが現実である。中高年女性も恋人が欲しいと、最大の願望を込めて、この映画を撮った。
中高年女性だって、捨てたものではないというが、この監督は真相を良く理解していないようだ。

 自立には孤独がつきものであり、全能の神こそ最も孤独なのだ。
そして、神を殺した男性は自立と引換に、孤独の果汁を飲まされ続けて生きた。
女性が自立した今、それが女性にも訪れただけである。
孤独が辛いと、泣き言を言ってもらっては困る。
男性が中高年女性に秋波を送らないと嘆くが、それもお門違いである。
たしかに若い女性は魅力的である。
若いことは、若いというだけで、1つの魅力である。
しかし、歳を取るに従って、若いという魅力が減っていくのなら、それを補う価値を作れば良いのだ。

 男性たちは、女性より少し早く自立したので、先頭の利益によって経済力を獲得した。
そして、男性たちの世界を創ってきた。
男の世界は、けっして簡単に手に入ったのではない。
男性間での戦いもあり、弱肉強食のなかで、男性たちが創ってきたのである。
自立を手にした女性たちも、女性特有の世界を創るべきだ。
それが若さに勝るものである可能性は充分にある。

 この映画でも、若い医者ジュリアン・マーサー(キアヌ・リーブス)を、エリカに言い寄らせている。
エリカとは20歳以上も年下である。
エリカの熱烈なファンだったという設定だが、脚本の作者としての魅力と、現実の人間関係は別だろう。
この監督は、「プライバート・ベンジャミン」の脚本を書いているが、当時は女性が男性批判をする時代だったから、女性たちにも元気があった。
批判をする時代は過ぎた。

 女性が人間として、いかなる価値を創りだすかが、問われている。
女性も人間である以上、新たな価値を創りだす力があるはずである。
しかし、自分の価値は自分しか作れない。
男性が助けることはできない。
創造とは孤独な作業である。
中年女性のこの監督は、自分の体験である没入的恋愛を、無条件で肯定しているのが気になった。
自己の体験を肯定するのは、時代に立ち向かっていないように思う。


 今の若い女性たちは、人間間の距離を大きくとり、自分が傷つくような恋をしない。
実はこの軽い人間関係が、新たな恋愛なのかも知れない。
「恋愛」とは近代のものに過ぎない。
ましてや没入的恋愛は、近代男性の発明品である。
最初は男性が、恋愛に現を抜かしたのである。
前近代にあったのは、色や恋であり、それらは肉欲に直結していた。
恋愛に精神を持ち込んだのは近代である。
とすれば、近代の恋愛とは違う男女関係があり得るだろう。

 エリカが憧れて、天にも舞った恋愛は、男性支配が確立した近代のものである。
つまり、近代的な恋愛は、それ自体で男性支配のイデオロギーの産物である。
今でこそ、恋愛にふける男性を柔弱とみなして、あたかも恋愛は女性のもののように言う。
しかし、北村透谷や有島武郎など、全人的な恋愛の実践は男性によってなされた。

 エリカに一竿主義的恋愛を謳わせるが、それは近代の男性的恋愛観なものかもしれない。
前近代にあったのは、夜這いなどの肯定の上に立った色であり欲だった。
もっと色欲を素直に出して、一竿主義をはなれれば、可能性はもっと違って見えるはずである。
この監督は古いフェミニズムから脱することができないので、近代的な恋愛観からも自由になれないように感じる。
一竿主義や一穴主義は、核家族へと連なる近代の桎梏といったら言い過ぎだろうか。

 ダイアン・キートンのスタイル維持には、涙ぐましいものがあるだろう。
歳いったとはいえ、きれいなスタイルである。
顔には皺が目立ったが、じつに素敵な体型を維持していた。
ところで、フランシス・マクドーマンドに、もう少し重要な役をやらせて欲しかった。
芸達者なジャック・ニコルソンとダイアン・キートンのあいだで、キアヌ・リーブスの下手さが目立った。

 最後は2人を結ばせず、ハリーを失意のままに終わったほうが、主張が良く伝わってきた。
何度も終わるシーンになりながら、なかなか終わらず、主張を薄めてしまった。
映画としては無駄が多くて、テンポがのろい。
2時間を超える映画だが、あと30分詰めれば良くなっただろう。 
2003年アメリカ映画 
(2004.04.09)

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