|
|||||||||
|
|||||||||
1992年に上梓した「性差を越えて」で、「女性にとって、きびしい状況が迫っている」と書いた。 「工業社会まで、女性は産んだ子の母親であることによって、男性に対する地位を主張できた」が、自立をめざした女性には、子供が自己の存在証明とはならない。 自立した女性は、裸の個人である。 だから女性の自立は、女性に大きな可能性も開くが、同時に厳しい状況をもたらすのは必然である。
厳しい状況にフェミニストらしき女性監督は、いささかの音を上げているのが、この映画だと思う。 女性が自立した結果、女性も多くの収入を手にし始め、男性の稼ぎに頼らずにも済むようになった。 いまや女性に経済力があるので、離婚へのためらいがなくなった。 その結果、大きく離婚が増えた。 いまでは、2組に1組が離婚する。 この監督も離婚している。 この映画の主人公エリカ(ダイアン・キートン)も、離婚している。 彼女は自分の脚本が売れたので、ニューヨークの郊外に豪勢な別荘を構えて、大金持ちの生活を満喫している。 しかし、年老いてくると、男たちは誰も見向きもしなくなってきた。 男性はお金があれば、歳をとっても、若い女性との恋愛遊戯を楽しめるが、女性には男性が寄ってこない。 寂しく一人、大きなベッドで夜を迎える日が続く。 女性が個人化したのを証明するかのように、30歳になる娘のマリン(アマンダ・ピート)は、63歳のハリー・サンボーン(ジャック・ニコルソン)と、恋愛関係にあった。 エリカの別荘で、ハリーが心臓発作で倒れたのをきっかけに、マリンからエリカへと恋愛関係が入れ替わる。 エリカは最初こそ戸惑うが、男日照りの日々だったので、新らた男性の登場は天にも昇るものだった。 自立はしたけど、孤独な毎日。 こんなはずではなかった。 自立の先には楽しいことがあると、想像していたのに、厳しい孤独が襲ってくる。 いままで、男性の経済力に守られていたので、自立せずに済んだ。 かつては男性たちも離婚しようとはしなかった。 毎日夫は帰宅し、形式だけだったかも知れないが、男性たちは女性に優しかった。 しかし、困難を覚悟で、アメリカの女性は自立した。 自立こそ、1人前の人間になることだった。 対等になった男女間では、それぞれが自分の好みで生きる。 女性が望んだ地位が手に入った。 しかし、離婚できるようになった今、男たちは中高年女性には目もくれない。 女性にも男性に対する好みがあるように、男性の女性に対する好みにも、文句は言えない。 恋愛の自由市場では、男女に立場の違いはない。 監督、脚本、製作を一人で手がけた映画監督は、「歌追い人」を撮ったマギー・グリーンウォルド氏等と同様に、古いタイプのフェミニストで、実現してしまった現実に戸惑っている。 エリカの元夫も、娘と2つ違いの若い女医さんと再婚する。 それが現実である。中高年女性も恋人が欲しいと、最大の願望を込めて、この映画を撮った。 中高年女性だって、捨てたものではないというが、この監督は真相を良く理解していないようだ。 自立には孤独がつきものであり、全能の神こそ最も孤独なのだ。 そして、神を殺した男性は自立と引換に、孤独の果汁を飲まされ続けて生きた。 女性が自立した今、それが女性にも訪れただけである。 孤独が辛いと、泣き言を言ってもらっては困る。 男性が中高年女性に秋波を送らないと嘆くが、それもお門違いである。 たしかに若い女性は魅力的である。 若いことは、若いというだけで、1つの魅力である。 しかし、歳を取るに従って、若いという魅力が減っていくのなら、それを補う価値を作れば良いのだ。 男性たちは、女性より少し早く自立したので、先頭の利益によって経済力を獲得した。 そして、男性たちの世界を創ってきた。 男の世界は、けっして簡単に手に入ったのではない。 男性間での戦いもあり、弱肉強食のなかで、男性たちが創ってきたのである。 自立を手にした女性たちも、女性特有の世界を創るべきだ。 それが若さに勝るものである可能性は充分にある。 この映画でも、若い医者ジュリアン・マーサー(キアヌ・リーブス)を、エリカに言い寄らせている。 エリカとは20歳以上も年下である。 エリカの熱烈なファンだったという設定だが、脚本の作者としての魅力と、現実の人間関係は別だろう。 この監督は、「プライバート・ベンジャミン」の脚本を書いているが、当時は女性が男性批判をする時代だったから、女性たちにも元気があった。 批判をする時代は過ぎた。 女性が人間として、いかなる価値を創りだすかが、問われている。 女性も人間である以上、新たな価値を創りだす力があるはずである。 しかし、自分の価値は自分しか作れない。 男性が助けることはできない。 創造とは孤独な作業である。 中年女性のこの監督は、自分の体験である没入的恋愛を、無条件で肯定しているのが気になった。 自己の体験を肯定するのは、時代に立ち向かっていないように思う。 今の若い女性たちは、人間間の距離を大きくとり、自分が傷つくような恋をしない。 実はこの軽い人間関係が、新たな恋愛なのかも知れない。 「恋愛」とは近代のものに過ぎない。 ましてや没入的恋愛は、近代男性の発明品である。 最初は男性が、恋愛に現を抜かしたのである。 前近代にあったのは、色や恋であり、それらは肉欲に直結していた。 恋愛に精神を持ち込んだのは近代である。 とすれば、近代の恋愛とは違う男女関係があり得るだろう。 エリカが憧れて、天にも舞った恋愛は、男性支配が確立した近代のものである。 つまり、近代的な恋愛は、それ自体で男性支配のイデオロギーの産物である。 今でこそ、恋愛にふける男性を柔弱とみなして、あたかも恋愛は女性のもののように言う。 しかし、北村透谷や有島武郎など、全人的な恋愛の実践は男性によってなされた。 エリカに一竿主義的恋愛を謳わせるが、それは近代の男性的恋愛観なものかもしれない。 前近代にあったのは、夜這いなどの肯定の上に立った色であり欲だった。 もっと色欲を素直に出して、一竿主義をはなれれば、可能性はもっと違って見えるはずである。 この監督は古いフェミニズムから脱することができないので、近代的な恋愛観からも自由になれないように感じる。 一竿主義や一穴主義は、核家族へと連なる近代の桎梏といったら言い過ぎだろうか。 ダイアン・キートンのスタイル維持には、涙ぐましいものがあるだろう。 歳いったとはいえ、きれいなスタイルである。 顔には皺が目立ったが、じつに素敵な体型を維持していた。 ところで、フランシス・マクドーマンドに、もう少し重要な役をやらせて欲しかった。 芸達者なジャック・ニコルソンとダイアン・キートンのあいだで、キアヌ・リーブスの下手さが目立った。 最後は2人を結ばせず、ハリーを失意のままに終わったほうが、主張が良く伝わってきた。 何度も終わるシーンになりながら、なかなか終わらず、主張を薄めてしまった。 映画としては無駄が多くて、テンポがのろい。 2時間を超える映画だが、あと30分詰めれば良くなっただろう。 2003年アメリカ映画 (2004.04.09) |
|||||||||
<TAKUMI シネマ>のおすすめ映画 2009年−私の中のあなた、フロスト/ニクソン 2008年−ダーク ナイト、バンテージ・ポイント 2007年−告発のとき、それでもボクはやってない 2006年−家族の誕生、V フォー・ヴァンデッタ 2005年−シリアナ 2004年−アイ、 ロボット、ヴェラ・ドレイク、ミリオンダラー ベイビィ 2003年−オールド・ボーイ、16歳の合衆国 2002年−エデンより彼方に、シカゴ、しあわせな孤独、ホワイト オランダー、フォーン・ブース、 マイノリティ リポート 2001年−ゴースト ワールド、少林サッカー 2000年−アメリカン サイコ、鬼が来た!、ガールファイト、クイルズ 1999年−アメリカン ビューティ、暗い日曜日、ツインフォールズアイダホ、ファイト クラブ、 マトリックス、マルコヴィッチの穴 1998年−イフ オンリー、イースト・ウエスト、ザ トゥルーマン ショー、ハピネス 1997年−オープン ユア アイズ、グッド ウィル ハンティング、クワトロ ディアス、 チェイシング エイミー、フェイク、ヘンリー・フール、ラリー フリント 1996年−この森で、天使はバスを降りた、ジャック、バードケージ、もののけ姫 1995年以前−ゲット ショーティ、シャイン、セヴン、トントンの夏休み、ミュート ウィットネス、 リーヴィング ラスヴェガス |
|||||||||
|