タクミシネマ          歌追い人

歌追い人     マギー・グリーンウォルド監督

 100年も前だろうか、まだ蓄音機もない時代の話である。
ノース・キャロライナの山奥で、ひっそりと生活する人たちの所へ、大学の音楽教師リリー(ジャネット・マクティア)が紛れ込む。
彼女は、学内でのセクハラ的な昇進妨害にあって、怒り心頭に発して、大学から飛び出したのだった。
そこで、しばらく休暇でも取ろうと、妹エルナ(ジェーン・アダムス)がゲイの同僚ハリエットと、運営している山奥の学校を訪ねた。

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 アイルランド人の末裔が住むそこは、文盲が支配し、きわめて原始的な生活が営まれていた。
そして、本国ではとうに途絶えたと思われた民謡が、人々の生活に根付いていた。
人々は何かと歌を歌い楽器をとりだし、自分の心情を音楽にのせて歌っていた。
素朴なカントリー アンド ウェスタンである。
古い音楽の専門家だった彼女は、感動しながら採譜に取りかかる。
そして、採録機を取り寄せて、録音を始めた。

 地元の人たちは、ただ毎日のこととして歌っているに過ぎない。
それにもかかわらず、自分たちの歌に興味を示すリリーを怪訝に思った。
しかし、彼女の情熱があまりにも大きいので、やがて心を開き、民謡の数々を聞かせてくれることになる。
これだけなら、単なるノンフィクションである。
映画とするには、仕掛けが必要である。

 都会から来た地上げ屋、地元の人たちの色恋沙汰、医師のいないことによる困難な出来事、エルナとハリエットのゲイ関係を非難しての放火、そして、リリー自身の恋と、盛りだくさんのエピソードを交えて、映画は静かに進む。
最初に拒絶された老女ヴァイニー(パット・キャロル)とは、その後本当に親しい仲となる。
そして、とうとう彼女の息子トム(エイダン・クイン)と結ばれる。
リリーがトムをつれて、都会に出ようとするところで、映画は終わる。

 映画としては、ややご都合主義的な展開はあるが、田舎の人々のむき出しの欲望を、静かな自然の中で描いている。
かつては子供がたくさん死んだ。
ヴァイニーは9人の子供を産んだが、育ったのは2人だという。
医者のいないここでは、出産は命がけである。
昔はみんなこうだった。
人間がむき出しで自然に晒されていたから、たちまち死に直面した。

 小さな山の中の共同体でありながら、いざこざは起きる。
色恋沙汰で死人が出たりもするし、キリスト教が浸食してきて、ゲイが許されなくなる。
農村共同体では、同性愛は必ずしも否定されなかったが、近代の入り口で厳しく抑圧されていく。
ゲイを許容しないことにかけては、大学人のリリーも同断であり、むしろ自然人トムのほうが寛容である。
生理的なむき出しの欲望には、前近代のほうが寛容である。

 肉体的な価値が支配的だった時代では、肉体から生まれる願望に、忠実であることが許される。
しかし、近代は肉体支配から頭脳支配へと転換した。
肉体の欲望を認めたら、頭脳支配が貫徹できない。
そこで近代は、人間の生理的な欲望を下品なものと考え、人為的な支配下に置こうとした。


 近代とは、頭脳が想定したあるべき秩序が、正しいこととされた。
だから、肉体の欲望は頭脳によって、秩序正しく制御される必要があった。
食欲は儀式性の中に位置づけられて、公然性を維持したが、性欲は公然性を否定されて、私的な世界へと閉じこめられた。

 制作者たちが意識したかどうかは判らないが、この映画でも、そのあたり事情は良く描かれている。
積極的で清潔を好む、いかにも現代アメリカ人の典型であるリリーに対して、公私の区別がないヴァイニーの開けっぴろげさ。
彼女は平気で性的なことを口にする。
我が国でも、かつては女性も猥談をしたが、今では猥談その物がなくなってしまった。
近代は性欲を恥ずべきものとしたので、猥談が減るのは当然である。

 この映画の役者たちは、総じて演技が上手い。
なかでもヴァイニーを演じたパット・キャロルの演技は、おおらかで自然で何気なく、素晴らしいものだった。
ハリウッドでは、キアヌ・リーブスの演技が通用してしまうことを考えると、むしろ演技の質はインディ系のほうが上かも知れない。
ヒロインを演じたリリーも、アメリカで肯定されるインテリ女性像を、それなりに演じていたし、脇役陣にも見るべき演技が多かった。

 ところで、女性監督だからだろうか、ヒロインは最後に自分の職業を選ばずに、恋人を選ぶのである。
採取した資料を火事で失って、一時、彼女は失意に沈む。
そこへ、大学からホイットル教授がやってきた。
教授はリリーの業績を認め、自分がリリーの助手として、歌の採取を続けたいと申し出る。
あんなに望んだ好機が今、目の前にある。
しかし、リリーは恋人トムとの新しい生活を選ぶ。
女性が業績を指向しないところに、物足りなさを感じる。


 ここでトムを棄てて、ホイットルとの採集を選んだら、確かに映画にならないかも知れない。
しかし、本当はトムと都会に出るのを、少し遅らせれば済むことである。
民謡の採取は、人々が協力的な今が好機である。
トムを説得して、もう1年一緒に村で暮らせば、彼女の大きな業績になる。
業績は彼女が望んだ昇進をもたらす。
業績よりも恋を選ばせるセンスは、古い近代女性のものであり、現代女性なら業績を選ぶか、両立を考えるだろう。

 歴史的には少ない女性のゲイや、100年前の女性研究者といった、やや史実に怪しい設定も、一時代前のフェミニズムを感じがする。
その程度はご愛敬かも知れないが、都会人の女性が田舎を発見する構造に、何だか据わりの悪さを感じてしまう。
トムが奥さんを2人も亡くしていることにまで目が届き、前近代にあっては女性だけではなく男性も、偉大な自然の前では無力だったと描いているから、判っているのかとも思う。

 この映画は、アメリカのフェミニズムが生んだ、良心的な作品だとは思う。
しかし、都会(=近代)が田舎(=前近代)を捉える構造を脱しておらず、時代感覚が古く、広がりにかけるように思う。
監督のセンスに、上品な教養趣味的な資質を感じ、大衆的な映画を好まないのではないか。
この監督のセンスは、フェミニズムが批判した、近代の男性主義そのものだ。

 フェミニズムが近代の子であるとすれば、それもやむを得ないが、むしろ大衆的な生き方の中に、時代を超えるものがある。
それがヴァイニーではなかったかと思う。
この監督の信奉するフェミニズムは、近代から前近代を見る古い近代人のもので、近代そのものを相対化する視線に欠ける。
自己の業績ではなく、恋人を選ばせるところに、思考が近代女性で止まっているように感じる。
 2000年アメリカ映画

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