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記憶を扱うと、なぜ映画が難しくなるのだろうか。 この映画も、「メメント」などと同様に難しい。 しかも、記憶を扱いたがるのは、若い監督に多い。 この映画も若い監督の作品である。 人生のすべてが記憶できるチップを、頭のなかに埋め込み、死後それを取り出して、追悼上映会を開催して故人をしのぶ。 近未来社会には、そんな習慣ができていた。
人生は複雑であり、人は正しいことだけをしてきたわけではない。 多くの人は悪いこともやった。 出世した人は、人に自慢できないことをしたことも、多々あったろう。 しかし、追悼上映会は遺族のために行われるのだから、遺族たちは故人が善良な人物だったと見せたい。 アラン(ロビン・ウイリアムス)は、きれいな人生だったように編集することにかけて、出色の腕前だった。 上映会で見せられる映像は、所詮虚構であり、人生そのものではない。 編集することによって、むしろ人生をズタズタにしてしまう。 記憶は人間の尊厳そのものであり、記憶をいじることは人間のやるべきことではない、という批判があったのは当然だった。 記憶をいじることは、神にのみ許されたことなのだ。 一種の贖罪思想をもっていた。そして、それが自分の天職だと信じていた。 そんな時、チップを扱うアイテック社の弁護士バニスターの人生を上映会にかけるように、チップに記録された情報の編集を依頼される。 バニスターは自分の子供に、性的ないたずらをしており、けっして聖人君子ではない。 彼のチップを分析することによって、アイテック社に反対できると考えたフレッチャー(ジム・カヴィーゼル)が、アランにチップを渡すように迫ってきた。 と同時に、バニスターのチップには、アランの幼児期の記憶を揺さぶる人物が写っていた。 バニスターの記憶を編集しているうちに、自分の記憶を確かめることへと、心が動いてくる。 アランは非合法な方法で、記憶を確かめようとしたとき、実は自分にもチップが埋められていることを知る。 すると突然、彼は記憶の編集が、悪いことだと思うようになってしまう。 他人の記憶を扱っているうちは、神の代わりができたが、自分が自分の記憶を扱うことはできない。 そこで彼は宗旨替えをして、チップの効力を無効にする入れ墨を入れる。 これは編集者には許されない行為だった。 宗旨替えをした彼は、恋人のディライラ(ミラ・ソルヴィノ)にも振られるし、フレッチャーに追われることになる。 ここを境に、物語はまったく違った展開になるのだが、なぜ変心したのか説明不足なのだ。 反大企業=反チップの運動と、アランの関係も不明だし、フレッチャーに命を狙われるのも理解に苦しむ。 もっと言ってしまえば、チップを埋設する設定は良いとしても、それが追悼上映会に使われるだけというのが説得力に欠けるのだ。 チップを埋設すれば、もっともっと不気味なことが現出するだろう。 着想としては面白いので、物語をもっと練ってほしかった。 ファイナル・カットとは、映画の編集権をも意味する。 死後の記憶編集と、映画の編集権をかけていると読むのは、穿ちすぎだろうか。 2004年アメリカ映画 (2006.1.12) |
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