タクミシネマ        さゆり

さゆり      ロブ・マーシャル監督

 アーサー・ゴールデンという外国人が書いた原作を、
外国人監督が多くの外国人俳優を使って、我が国の芸者の物語を映画化した。
相当なお金がかかっており、巨大なセットや衣装など、その再現には頭が下がる。
しかし、主題が途中で変わってしまっており、映画としてはつまらない出来だった。

SAYURI [DVD]
劇場パンフレットから

 芸者とは芸を売る女性であって、体を売る職業人ではない、と始めに科白が入る。
我が国でも、芸妓と娼妓の区別が付かなくなっている現在、
芸者は芸妓であって娼妓ではないという科白は、芸を売る職業人としての女性の物語かとおもわせる。
しかし、惚れた男の妾になることが、夢だったというエンディングである。 

 現在のように、手軽で安全な避妊が普及していなかったので、戦前にはたくさんの子供が生まれた。
しかし、貧しい人たちは、生まれた子供の全員を育てることが出来なかった。
女の子の場合、子供の人生を開くべく、女衒に子供を渡したのだ。
太平洋戦争前、人身売買がまかり通っていた。
さゆり(幼名:千代、大後寿々花)も、漁師の親から、姉と共に花街へと売られた。


 姉は娼妓にさせられてしまったが、さゆりは置屋「新田」で芸妓の道を歩み始める。
置屋の女将(桃井かおり)は算盤高く、売れっ子の芸者初桃(コン・リー)を優遇している。
初桃は、半玉のおカボ(工藤夕貴)をかわいがり、さゆりには冷たかった。
そんな折り、さゆりはよその置屋の芸者である豆葉(ミッシェル・ヨー)に引き取られ、芸者修行に励むようになる。

 さゆり(チャン・ツッイー)は豆葉の目算どおり、超一流の芸者に育つ。
1万5千円という破格の値段で、医者に水揚げされ、順調に芸者稼業を続けていたが、
戦争によって三業地が閉鎖されてしまう。
さゆりの贔屓客だった会長(渡辺謙)と延さん(役所広司)が、彼女の疎開先を斡旋してくれ、
そこで敗戦を迎える。
会長を思い憧れていたさゆりは、彼に感謝しつつ、厳しい日々の仕事に明け暮れていた。

 敗戦直後は、誰もが生きるのに精一杯で、芸者遊びどころではなかった。
やがて、占領軍の将校を相手に接待をしてくれないかと、延さんがやってくる。
会長も喜ぶと聞いて、さゆりは芸者に復帰する。
最後になって、豆葉がさゆりを引き取ったのは、会長の差し金だったことがわかる。
そして、会長とさゆりは結ばれる。
しかし、ここでの科白が、芸者は妻の半分だというもので、職業人としての決意に従って生きるものではなかった。

 芸者は旦那がいなければ生きていけないから、豆葉はさゆりに旦那をもてという。
芸者は自分の好みや愛情生活を望んでは生きていけない。
旦那の庇護を受けながら、職業人として芸に生きるのだ、と豆葉は言う。
その豆葉の言葉に対して、さゆりは自分の生き方を貫くと反発する。
しかし、さゆりの反発は、芸の職業人として自立することではなく、憧れの会長の妾になることだった。


 芸の職業人という前提で始まった映画が、自立はどっちでも良いという結論になった。
この結論は、どうにも説得的ではない。
さゆりが会長にあこがれて、それが生きる支えになったのは良いとしても、
憧れの男と結ばれることだけが、映画の主題とは時代錯誤も甚だしい。
すでにアメリカでは、純愛映画は成立しないはずにもかかわらず、こんな結論にしたのはエキゾチズムのせいだろうか。

 一つ一つの場面は、お金がかかっている。
それはよくわかる。
とくに新田や花街のセットや、冒頭の汽車のシーンなど、よくできている。
おそらく広大な場所に、街ごと巨大なセットを組んだのだろう。
木製の太鼓橋が、唯一嘘っぽかった程度で、瓦や敷石まで、外国である我が国の事物を良く復元している。

 歩き方や髪型にかぎらず、違うのはわざと外したのだろうし、実によく調べていると思う。
ちょっと物足りなかったのは、舞の海と出羽嵐が相撲取りとして登場するが、
彼等の皮膚に現役力士の張りがなかったことだ。
現役力士の艶やかな身体を見せて欲しかったと言うのは、ないものねだりだろうか。

 最初に書いたような前提で、この映画を見れば、敬意を表せざるを得ないが、
映画としては詰まらなかった。
後半になるに従って、退屈になってきて、画面から集中力が削がれてきた。
主題が変わってしまったせいだけではなく、映画の作りがのっぺらぼうである。
エピソードをつなげたに過ぎず、起承転結がないので、物語に山がない。

 一番問題だったのは、さゆりを演じたチャン・ツッイーが色っぽくないことだ。
売れっ子芸者であれば、ふれなばおちんの風情がある。
白く柔らかく、なめらかな肌、やや胴長のふっくらとした体つき、それが売れっ子芸者の身体だ。
スポーツ選手のようなチャン・ツッイーには、芸者は似合わない。

 アメリカのポルノは猥褻ではあっても、隠微な色気がまったくなく、好色という感じがしない。
セックスがスポーツのようだ。
もちろんアメリカ人にも美は判るらしいが、
屈折した美とか、耐える風情といったものは、理解の外ではないだろうか。
芸者は前近代にしか、生きることはできないのだ。
前近代をもたないアメリカ人には、前近代の文化を理解しにくいだろう。2005年アメリカ映画
 (2005.12.20)

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