タクミシネマ       シンデレラマン

シンデレラマン     ロン・ハワード監督

 逆境にあっても妻子を思う家族愛と、頑張れば報われるという、
アメリカ人への勇気づけが、この映画の主題だろう。
ストーリーは事前に判っているので、やや興味が削がれる。
しかも、ノンフィクションだというので、面白いだろうかと半信半疑で見に行った。

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 1930年代の大恐慌の時代、アメリカは不況のどん底にあり、多くの人々は失業した。
主人公のジム・ブラドック(ラッセル・クロウ)は、ボクサーだったが、怪我でリングに立てなくなった。
選手生命を失った彼も、他の人と同様に失業者となった。
そして、経済的困窮もきわまり、家族離散に直面した。
そんなとき、かつてのマネージャー、ジョー(ポール・ジアマッティ)が再起試合を持ちかけてくる。

 あまりに強いボクサーに、挑戦者がいなかったので、コミッショナーが相手を捜していた。
そこでボクサーのライセンスを剥奪されている彼に、白羽の矢がたちこの試合だけが許された。
練習などしていなかった彼は、当然に負けると予想されたが、意外にも勝ってしまった。
彼の強さを知ったジョーが、彼をリングに復帰させるために奔走し、次々と試合を組んでいく。

 実話だというこの映画は、70年近く前のボクシングを、忠実に再現しているらしい。
現代のボクシングより、はるかに殴り合いに近く、スポーツというより、興業という面が強調されている。
映画はテレビと違い、大きな画面に飛び散る汗や血、殴られてひん曲がる顔といった、
細かい部分が大きく強調される。
試合のシーンは、凄惨ですらある。
一度は死んだボクサーが、復活してチャンピョンになるまでを描く。
シンデレラのように幸運な男というわけだろう。

 アメリカでも家族愛が強調される昨今、この映画も、これでもかとばかりに家族愛を描く。
我が国で家族愛というとき、親が子を思う気持ちだけではなく、子が親に従う風景も描かれる。
しかし、アメリカ映画の家族愛は、親が子供を思う愛情だけを描く。
アメリカの子育ては、親の楽しみなのだ。
ジムと奥さんのメイ(レニー・ゼルウィガー)が、貧しい中に必死で子供を育む様子が、美しく描かれる。

 確かに家族愛が主題だとは思う。
しかし、この監督は専業主婦の無力さをも、描いていたのではないだろうか。
というのは、失業したジムが仕事を探して苦労する日々に、
妻のメイは家にいて、3人の子供たちの世話を焼いている。
ジムとメイは互いにとても愛し合っているが、やはり衝突することはある。
そのとき、男は外で働き、女は家庭内といった性別役割がどっと表面化する。

 妻のメイには何の経済力もない。
当時は、性別により、男は外、女は家庭内といった役割分業が、社会を支配していた。
女性が職業を得るのは不可能だったろう。
今日では、「ガールファイト」や「ミリオンダラー ベイビィ」のように、女性もリングに上がる。
しかし、当時は女性がボクシングをするなど、想像もつかなかったはずである。
だから、妻のメイは夫のジムを、精神的に支えているのだった。


 ボクシングの試合でも、ジムは家族があったから勝てたと言う。
メイがジムの支えになっていることが、何度も強調される。
と同時に、メイの無力さもさりげなく、しかし、しっかりと強調される。
女だから学校に行けないと娘に言わせたり、ジムからお金をもらうとき押し抱くようにさせたり、男女差が強調されていると見るのは、穿ちすぎだろうか。

 アメリカでは女性の自立映画は、すでにまったく見なくなった。
アメリカでは専業主婦は少ない。
だから、いまさら専業主婦批判などする必要もない。
しかし、1930年代の家族を舞台に、家族愛を描けば、専業主婦批判が内包されるのは、
表現として必然だろう。
我が国で1930年代を舞台に映画を撮るとき、家族愛の中に専業主婦批判を込めるだろうか。
このあたりがアメリカ映画の奥深いところだと思う。

 今でも小津安二郎の家族映画を、絶賛してい人たちがいるが、
彼等は小津映画の中にある性別役割をどう見ているのだろうか。
もちろん昔に生きた小津を、批判するつもりはまったくない。
しかし、現代人が家族を語るときは、性別役割批判をはずしては不可能である。
古典を見るときでも、現代の原則をきっちりと読み込んでいく、そうした姿勢が必要だろう。
深読みしすぎかも知れないが、この映画に性別役割批判を感じた。

 ハリウッドでは評判の悪いラッセル・クロウだが、劇中者になりきっていて、さすがに演技は上手い。
演技が上手いから、人間的には評判が悪くても、キャスティングされるのだろう。
それにたいして、レニー・ゼルウィガーの演技が、単調になってきた。
まったくキャラクターが違う「ブリジット・ジョーンズの日記」と、同じ演技とは一体どうしたことだ。

 メイキャップなどのディテールは、実に丁寧に作られている。
ボクシング会場なども、大勢の人を配置して、お金がかかっている。
アメリカ映画の常で、時代考証も入念になされており、ケチの付けようがない。
しかし、無一文の貧乏のはずなのに、ディナーのときにはドレスを着たり、
葬式には喪服を着たり、といったのは可能だったのだろうか。
やや不自然な感じである。
そして、ところどころカラーの発色が悪いのが気になった。
2005年のアメリカ映画
(2005.09.21)

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