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戯曲「ピーターパン」が誕生する際のエピソードに、表現者の苦悩と悦楽をからめて描いた映画で、子供に学ぶことを主題とする。 舞台は1903年のロンドンである。 裕福で有名な劇作家バリ(ジョニー・デップ)は、書いた戯曲が当たらずに、悲嘆にくれていた。
表現について確認することから、この映画の評論は始めなければならない。 表現とは神に代わる行為だから、それに従事する人間は全身を注ぎ込むことになる。 一時の激情に駆られて結婚しても、表現の場に戻ってくれば、愛する人を忘れて表現の世界に没入する。 しかし、奥さんのメアリー(ラダ・ミッチェル)は、表現者バリにたいして、自分への愛と表現への専念との両方を求めた。 日常生活者の感性としては、彼女の希望は当然である。 表現者は孤独である。 どんなに愛している奥さんがいても、表現の世界で手助けしてもらうわけにはいかない。 表現の世界に没入することは、日常の世界を逸脱することである。 表現を知らない連れ合いには、表現者を理解することは不可能である。 表現とは一種の狂気ですらある。 日常と表現の世界の間を往還することを、平常の神経でこなすことはとても難しい。 メアリーはバリに対して、「1日の仕事が終わったら、自分の所へ帰ってきて欲しい」という。 しかし、表現の世界に彷徨ったら、生身の人間を忘れてしまうのだ。 神の僕は、同時に悪魔の僕でもある。 表現者に日常の評判など無関係である。 生活者メアリーの希望は、表現の何であるかを理解しなかったから言えたのである。 父親を亡くしたばかりで、神経質になっていた子供たちだが、子供たちの自然な行動にバリは触発される。 バリが子供たちを元気づけているように見えるが、じつは子供たちとの接触で、彼は新しい戯曲の手がかりをつかんだ。 子供に教えられたのである。 当時の劇場は、金持ちの年寄りたちが来る場所だったようだ。 そこで上演される戯曲は、大人向きの上品なものだったのだろう。 バリは子供の無邪気な夢を、そのまま舞台化した。 4人兄弟の3番目ピーター(フレディ・ハイモア)から名前ももらって、書き上げた作品は「ピーターパン」だった。 近代がその全貌を現し始めた20世紀の入り口では、既成の権威が存立基盤を失い始めていた。 学校や工場ができはしたが、農耕社会の倫理を引きずっていたので、大人たちは人間を鋳型にはめようとしていた。 この戯曲には、デューイの「学校と社会」が書かれたように、権威主義的な教育では通用しなくなった時代背景がある。 この映画の中でも、子供たちの祖母デュ・モーリエ婦人(ジュリークリスティ)が、「大の大人が子供と遊ぶ」とバリを非難する。 彼女の意見が主流であり、真っ当な見識だった。 彼女は旧体制の代表者として登場してるいるが、今日でも子供と遊ぶことは、無為なことと見なされている。 自発的に各自が考え、物を生みだすには、独創性といったものが不可欠で、それには権威主義はなじまない。 工業社会に適合する価値観が模索されていた。 権威主義が行き詰まっていた。 この時代、新たな思想家や教育家が沢山誕生している。 何にも囚われない子供の自由さが、大人たちに見直されていた。 だから当時、子供だましのような戯曲「ピーターパン」が受け入れられたのである。 我が国の多くの評論家たちは、時代背景を理解しないまま、父親を亡くした子供たちへのバリの優しさとして、この映画の主題を語るだろう。 しかし、子供との交流は妻を裏切ることでもあり、同時に表現者のエゴでもあった。 この映画の主題は表現者の我が儘と、子供たちに教えられる大人にある。 大人から子供へではなく、子供から大人へが主題である。 「ピーターパン」の上演は、1900年当時は農耕社会の否定=権威主義の克服を意味したが、今日では脱近代の模索を意味する。 女性が自立してしまった現在、女性はすでに体制内存在である。 男性と対等になろうとする女性は、体制指向だから、男性と同じ程度にしか創造性を期待できない。 子供にはいまだ未知の可能性がある。 先進国の大人たちは、競って子供に学ぼうとしている。 そう考えてこの映画を見ると、近代を切り開いてきたことの意味が、改めて理解できる。 メアリーが体現する日常生活者が主流を占めるから、作家たちは安心して旧体制の打破を主張できるのだが、日常生活の繰り返しは機械でもできる。 日常の打破は、人間にしかできない。 だから、可能性をもった者として、子供に目が向けられる。 この映画の主題は、表現がいかに日常から逸脱するか、そして、その逸脱こそが時代を切り開いていく、である。 青少年の非行化とか、低年齢化する性体験といって、我が国では子供を否定的に見たがる。 大人たちは大人としての既得権に安住して、子供に学ぶ姿勢は皆無である。 しかし、情報社会化の最先端にいる社会では、「ピーターパン」が演じられたように、子供の可能性に学ぼうとしている。 「マイ ボディガード」がそうだったように、アメリカやイギリスの映画には、その流れが大きな傾向としてある。 表現者の逸脱を正面から描いたら、娯楽としての映画にはならない。 そこで、シルヴィアとの出会いや、純真な子供といった設定が必要となる。 アリエスを持ち出すまでもなく、1900年当時は子供の純真さに価値が置かれていなかった。 子供の見直しは、大人の都合によって始まったのだ。 いままた、情報社会の入り口で、価値を求めて表現者が彷徨している。 ジョニ・ディップは訛りのきつい英語を喋り、アメリカ人を演じるダスティン・ホフマンと対照的である。 時代考証をきっちりしているのであろうが、1903年の雰囲気は感じられず、新品で古いファッションを再現したように感じた。 2004年アメリカ、イギリス映画 (2005.02.03) |
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