|
|||||||||
|
|||||||||
外国に滞在することによって、現代人の孤独が増幅される様を、克明に描いた作品で、 いかにも今日的な主題である、と当初は思っていた。 しかし、時間がたつにつれ、それではこの映画を理解できないと思うようになった。 むしろ、親日家であるソフィア・コッポラ監督の、日本論もしくは日本人論だと考えたほうが自然である。
映画は、主演のボブ・ハリス(ビル・マーレイ)が来日初日から、異境での孤独感に苛まれることから始まる。 来日の初日から孤独感に襲われるのは、不自然ではないだろうか、と思っていた。 しかし、よく考えると決して不自然ではない。 監督、脚本、プロデューサーまで、1人で担当した彼女には、すでに日本に対するイメージが完成していた。 つまりこの映画は、ソフィア・コッポラの日本論だから、監督の指示に従ってボブは来日初日から、異境での孤立感に苛まれたのである。 若い妻のシャーロット(スカーレット・ヨハンソン)は、夫(ジョバンニ・リビージ)が仕事に忙殺されてかまってもらえずに、ボブ同様に異境での孤独感を体験している。 この状況はよく判る。働き蜂の海外駐在員の妻といった状況におかれれば、 現地に何の足がかりもない人間が孤独になるのは当然である。 海外にでると1人であることを、強烈に認識させられる。 1人であることの孤独を、異文化との理解不可能性として、この監督が捉えているのは肯首できる。 しかし、「ロスト・イン・トランスレーション」というタイトルからも判るように、 了解不能もしくは翻訳不能といった形で、最初から理解不能の壁を設定している姿勢には、やや疑問を感じた。 私がアジアを歩くときには、アジアに興味を感じているので、アジアに自分をすり寄るように没入しようとする。 この映画には、現地にすり寄る好奇心がない。 それを不自然に感じたが、この映画の不自然さは、時間がたつうちに氷解された。 ソフィア・コッポラは、何度もの来日で、日本に対してあるイメージができたに違いない。 そのイメージの描写だから、現地へのすり寄る好奇心がないのである。 ところで、彼女は日本に対する自分のイメージから、翻訳不能といった感想を得たのか、 それとも異文化全般にたいして翻訳不能と感じたのか。 おそらく対日本としての感想だろうと思う。 初めて来日したときには、彼女もまだ見ぬ日本への、好奇心に溢れていたはずである。 それが度重なる来日で、好奇心が鈍磨し、固定的なイメージができたに違いない。 翻訳不能というのは、彼女の白人性がなさせるものだ。 ユダヤ人の彼女が、西洋諸国やイスラエルに旅行したら、翻訳不能とはいわないだろう。 彼女には母なる文化は、決して異質ではないから、 むしろ自分から理解を求めて、現地の文化に頭を垂れるに違いない。 アジアという非白人文化圏だから、了解不能だといって、自己の領域へと戻っていけたのである。 どこの国でも外国人に対しては、多少なりとも恥ずかしがるものだ。 しかし、我が国の対応は、ちょっと違う。 そんな現実から想像しながら、彼女の体験を想像してみると、 来日当初は、通訳が何を言っているか、もどかしく感じたに違いない.。 日本人の外国人への典型的な対応が、不自然に感じられただろう。 外国人への対応のいくつかが、デフォルメされて描かれている。 ホテルの従業員たちの植民地的対応、 ボブのコマーシャルの撮影シーンでのカメラマンの対応、 日本の代理店が性的なサービスを派遣したことなどなど、いかにも日本的な対応である。 おそらく彼女の実体験であろう。 これはアジアの他の国とも違うし、西洋文明とはまったく異質である。 ソフィア・コッポラは、単なる旅行者として滞在しているだけなら、この映画は撮られなかったはずである。 彼女は仕事で来日を繰り返すうちに、西洋流の仕事の進め方と決定的に異なる現象に出くわし、 この映画のような感想を日本に対して抱いたに違いない。 そうはいっても、彼女は決して日本を嫌いになったわけではない。 奇妙な落ち着きの悪さを含めて、白人天国の日本を愛しているだろう。 そう考えると、この映画の構造がよく判る。 来日初日から違和感と孤独感に襲われるのも、彼女の日本体験が先行しているからであるし、 異文化に対しても最初から相対化する姿勢であるのも、 すでに出来上がった日本へのイメージがあるからだろう。 でなければ、来日初日のボブが、あんなに違和感をもつはずがないし、たった数日の日本滞在を楽しめないわけがない。 現代人の孤独が、海外滞在によって増幅されることは事実である。 海外にでると同国人とはすぐ仲良くなる。 この映画でも、親子ほど歳が離れているにもかかわらず、 ボブはアメリカ人のシャーロットと、たちまち意気投合する。 1人では同化できない異文化に、2人であれば簡単に侵入できる。 しかも、一緒に体験した異文化を、同じ感慨で共有できるから、ますます連帯意識が強くなる。 それはこの映画でも描かれるとおりである。 しかし、何度も言うように、孤独と異文化体験との親和性の物語と読むより、 ソフィア・コッポラの日本論もしくは日本人論と読んだほうが、この映画は理解しやすい。 それは彼女の分身だろうシャーロットとボブが、個人的な輪郭をくっきりとさせていることでもわかる。 他にも外国人は登場するが、 2人の主人公以外の外国人は個人としての輪郭がうすいし、もちろん日本人には個人としての輪郭は与えられていない。 個人という近代人の輪郭は、自意識の強烈な発露として、ソフィア・コッポラは自己をとらえている。 それは個人という主体が、日本に対して侵入したときに、日本の空気を体表から離して存在しているように見える。 日本の空気は、彼女の身体を取り巻きはするが、決して彼女の身体を浸潤することはない。 来日当初であれば、日本の空気は彼女に襲いかかったはずである。 しかし、日本滞在が長い彼女には、すでに日本を相対化して、自分のイメージが完成されている。 そのイメージをスクリーンに展開したのが、この映画だろう。 だから、ボブの唐突さがあれで自然なのである。 彼女のもった日本へのイメージは、日本人からすれば願い下げにしたくなる代物である。 出っ歯で欲望むき出しの日本人が、おそらく彼女のイメージに近い。 しかし、そのイメージを責め得ることはできないだろう。 彼女が親日家であっても、あのようなイメージを持つのは、やはり日本人にも原因がある。 白人天国、アジア人蔑視を、色濃くもつ我が国の異文化への視線は、ソフィア・コッポラ以外にも、同じようなイメージを与えている。 反対にキャメロン・ディアスのように、日本を大嫌いになる人もいる。 西洋人の多くが、西洋以外の国を内心では蔑視していても、きちんと教育を受けた人は公平な見方をする。 ソフィア・コッポラが、きちんと教育を受けた人か否かは不明だが、 この映画が描くような日本人像は一面の真実である。 新宿のパークハイアットを定宿にしている彼女が、おそらくVIPルームだろうからの景色を撮し、 もう一方で歌舞伎町のネオンをなめるように描く。 そして、街の風景は渋谷に拘ってみせる。 このあたりも商業主義的なアメリカ人が好むところだろうし、充分に理解が届く。 しかし、現代人の孤独が増幅される様を描いたものではなく、 彼女の日本体験のイメージを描いたものだと気がついたときには、日本人の私には何だか据わりの悪い映画となった。 2003年アメリカ映画(2004.05.14) 追記 この映画について、むさしのちえこさんからメールをいただいた。 「ソフィア・コッポラの日本人との交友関係は偏っており、普通の庶民の姿は見えなかった」とメールに書かれていた。 この指摘はまさに正しいと思う。 日本に何度も来ているソフィア・コッポラだが、パークハイアットのvipルームを定宿にした彼女の行動範囲は、ファッション関係やマスコミなどの特殊な職業人であろう。 「ソフィア・コッポラが、バックパッカーとして日本を旅行するようなアメリカ娘であったら、もっと庶民へと肉薄できた」と、むさしのちえこさんが言うのも同感である。 この映画が、日本人の一面しか見ていないのは、ソフィア・コッポラ自身に原因があると思う。 彼女が日本の特殊産業の人との対応に、居心地の良さを感じているのは、彼女がもっている資質であり、その資質がこの映画を撮らせている。 どんな一面を切り取るのも作者の自由だが、切り取り方もまた作者の人格の表現に拘束される。 そういった意味では、この映画は、白人天国を謳歌するソフィア・コッポラ好みの世界を描いたものに過ぎない。 本国とは切り離された植民地での自由を、満喫する彼女の趣味の悪さが露呈されたと言っても良いだろう。 ソフィア・コッポラは「ヴァージン・スーサイズ」では繊細な神経を見せたが、 アメリカ国内での問題関心と、外国における意識は必ずしも同質ではない。 国内では真摯な人が、海外では顰蹙を買う例はいくらでもあるように、文化を越えるときの意識の脱落は、相当に大きな問題である。 (2004.05.17) |
|||||||||
<TAKUMI シネマ>のおすすめ映画 2009年−私の中のあなた、フロスト/ニクソン 2008年−ダーク ナイト、バンテージ・ポイント 2007年−告発のとき、それでもボクはやってない 2006年−家族の誕生、V フォー・ヴァンデッタ 2005年−シリアナ 2004年−アイ、 ロボット、ヴェラ・ドレイク、ミリオンダラー ベイビィ 2003年−オールド・ボーイ、16歳の合衆国 2002年−エデンより彼方に、シカゴ、しあわせな孤独、ホワイト オランダー、フォーン・ブース、 マイノリティ リポート 2001年−ゴースト ワールド、少林サッカー 2000年−アメリカン サイコ、鬼が来た!、ガールファイト、クイルズ 1999年−アメリカン ビューティ、暗い日曜日、ツインフォールズアイダホ、ファイト クラブ、 マトリックス、マルコヴィッチの穴 1998年−イフ オンリー、イースト・ウエスト、ザ トゥルーマン ショー、ハピネス 1997年−オープン ユア アイズ、グッド ウィル ハンティング、クワトロ ディアス、 チェイシング エイミー、フェイク、ヘンリー・フール、ラリー フリント 1996年−この森で、天使はバスを降りた、ジャック、バードケージ、もののけ姫 1995年以前−ゲット ショーティ、シャイン、セヴン、トントンの夏休み、ミュート ウィットネス、 リーヴィング ラスヴェガス |
|||||||||
|