タクミシネマ        ヴァージン・スーサイズ

ヴァージン・スーサイズ  ソフィア・コッポラ監督

 時代は1975年。
13歳から17歳までの女性ばかり5人姉妹と、その両親の物語である。
美人揃いの姉妹たちは、近所の男の子たちから憧れと、好奇心いっぱいの眼で見つめられていた。
ある時、一番下の妹セシリア(ハンナ・ハル)が自殺を図ったが、何とか一命をとりとめた。
彼女を元気つけるために、母親(キャスリン・ターナー)は近所の男の子を集めて、初めてパーティを開く。
しかし、パーティを抜け出した彼女は、二階から飛び降りて自殺してしまう。
そのあたりからこのリズボン家の様子が、ただならぬものであることが分かり始める。

ヴァージン・スーサイズ [DVD]
劇場パンフレットから

 ごく普通に生きる年頃の女の子たちだが、リズボン家の姉妹には学校と自宅の往復だけが許されて、普通の女の子のように自由な日常はない。
もちろん、男の子との付き合いも厳禁されており、いわば箱入り娘状態だった。
そうした環境を作っているのは、敬虔なクリスチャンである母親だった。

 立派な母親は、子供たちの健やかな成長を願って、害毒が溢れる世の中と、子供たちを接触させずに育ててきた。
女の子にとっての最大の害虫、それは男の子である。
肉体的には充分に成熟しながら、彼女たちは男の子たちのとの恋愛遊戯を禁じられていた。
映画のなかでは、女の子の生理的な匂いが、何度も描かれる。

 父親(ジェームズ・ウッズ)は子供たちが通う高校の数学教師だが、この家では父親は発言力がなく影が薄かった。
リズボン家の厳格な規律を仕切っているのは、何と言ってもキリスト教を信じる母親である。
しかし、いかに厳格な規律を子供に課しても、男女は寄り添うもの。
四女のラックス(キルステン・ダンスト)に、学校で一番のモテモテ男トリップ(ジョシュ・ハートネット)が言い寄ってくる。
ラックスもまんざらではない。
厳しい母親からグループデートの許可を取り付け、子供たちは喜んでデートに出かけるが、ラックスだけはその晩帰ってこなかった。
怒り心頭に発した母親は、子供たちを学校にもやらず、全員を外出禁止にしてしまう。
禁足に従うこと数ヶ月、ある日突然に彼女たち全員が自殺してしまう。

 切れる子供たちと何かと話題にされる十代だが、管理の強化は肝心の子供を殺してしまうという主題である。
リズボン家ではもはや家父長支配はない。
フェミニズムの主張どうり、この家の主人は女性である。
しかし、この女主人は、子供たちを無事に育て上げたいがために、がんじがらめの規則で縛り上げ、子供たちの自由を認めなかった。
異性に興味のわく年齢であるにもかかわらず、母親は良識という枷を子供たちにはめ、母親の価値観を子供たちに押しつけた。
おそらくこの母親は、未婚で男性体験を持つ子供を許せないのだ。

 1970年代の子供たちと違って、現在の子供たちはきわめて良い子たちである。
小さな頃から手篤く育てられてきたので、決して親に逆らったり、社会に反抗したりしない。
親の言うとおりに生活する。
しかし、子供というのは次世代を作る生き物であり、親という一つ前の世代の意のままにはならないものなのだ。
それを親の思うとおりに育てようとしたから、子供たちの自発性は内面化し、内向的になっていった。
この映画でも子供たちは日記を付けたり、内的な精神世界を作っている。
アメリカン・ビューティ」でも、子供が大人と同じように描かれていたが、この映画でも十代はもはや子供ではないと言っている。

 育てるとは補助することである。
朝顔を育てると言っても、人間にできるのは水をやることぐらいである。
それはどんな生き物も同じであり、小さなときから一緒にいると、親が子供を育てているように感じるが、子供は自分で育つのであり、親は補助者にすぎない。
子供の育つ力を削いでしまうと、一見は良い子になるが、途中で枯れてしまう。
この映画では、美人揃いの姉妹たちが、全員良い子に描かれている。
その良い子が自殺するのである。

 自然のなかで子育てができた農耕社会では、子供は次々に生まれ、ばたばたと死んでいった。
20歳まで無事に成長できたのは、生を受けた命の半分だった。
神が命を与えたのだから、子供が育つのは天命に従うのが当然だった。
しかし、今や命は人間が制御し、生む生まないは人間が決めている。
一人か二人の子供を大切に育てる現代、人間は子供を育てられるのだろうか。
子供は育つものであって、育てるものではなかったのではないか。
人間が人間を育てるなんてことは、神に唾することではないだろうか。
一見良い子たちはひ弱に育ち、天寿を全うできない。

 男女混合の兄弟姉妹ではなく、女性ばかりの五人姉妹という設定は、あきらかにフェミニズム批判を内包している。
女性は強くなった、社会的に男性と対等になった。
しかし、女性たちの作ろうとしている社会は、どんなものなのだろうか。
女性は生理的な肉体のメカニズムのゆえに、男性より自然に近い存在と言われながら、フェミニズムの主張はひどく人工的である。
なぜなら、神が授ける命を自らの手にしてしまったのだ。
神が作った生命誕生という自然の摂理を、生む権利として女性が行使しようとしている。
産んだ子供を育てることまで、生む権利という観念が支えてくれるのだろうか。

 この映画は、フランシス・コッポラの娘であるソフィア・コッポラが監督をしている。
女性から声高に謳われてきたフェミニズムにたいして、女性からも批判が出始めたと読むべきだろう。
近代にはいるとき、人間は神を殺し、自然の摂理を自分のものにした。
神より人間のほうが大切なのだ。
人間の命こそ、地球より重いものだと言った。
しかし、その見返りはたちまちやってきた。
20世紀は、史上初の大量殺人を犯した世紀だった。
情報社会のいま、完全に神の支配から離れようとしている。
神の創った摂理を、人間が代わって支えるのは、大変な大事である。
それに女性もやっと気づいたようだ。

 情報社会化が急速に進む現在、人間が生きるために、神にすがることはもはやできない。
敬虔なクリスチャンである母親を否定的に描くことで、この映画でもそれは明らかに認識されている。
リズボン家の姉妹たちは、自分からは何もせず、ただ男の子たちからの働きかけを待つばかりである。
フェミニズムの女性たちも男性を批判してばかりいないで、新たな価値を創っていかないと、誰も生きることができなくなってしまう。
この映画は、そう言っているように感じたのである。
そのままにしておけば、他の木も殺してしまう枯れ木を、伐らせない姉妹たちとそれを支持する母親の姿からも、真の自立の精神を女性たちに訴えているように思う。
なかなかに味わいの深い映画だった。

1999年のアメリカ映画。


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