タクミシネマ          ラスト サムライ

ラスト サムライ     エドワード・ズウィック監督

 ハリウッド映画といって、馬鹿にする空気があるが、この映画には本当に驚かされた。
芸術を云々するのではない。
自分の問題意識を、観客に判るように描く。
ただそれだけである。
しかも、その描き方や、セットの組み立てといい、人物の再現といい、実に精確である。
明治時代を、これだけ正確に再現するのは、もはや我が国では不可能かも知れない。

ラスト サムライ 特別版 [DVD]
劇場パンフレットから

 舞台は1870年代の我が国、明治維新が終わったばかりである。
幕府を支持する勢力が、各地に残っていた。
明治政府の成立基盤は、未だ不安定だったので、近代化が何よりの急務であった。
そのため当時の我が国は、西洋諸国の文明を競って取り入れる。
軍備に関しても同様だった。
アメリカの南北戦争で、消耗したオールグレン大尉(トム・クルーズ)が、我が国の近代的な軍隊を育成すべく招聘される。

 近代しかないアメリカ。
アメリカも原住民たるインディアンを殺して、近代国家を建設しようとしていた。
現住文化を抹殺することに、迷いを感じていたオールグレン大尉は、我が国のサムライたちに、純化された精神性を発見する。
この映画は、情報社会に入った現代アメリカが、新たな時代の入り口で、本当にこのまま進んで良いのか。
新しい時代の精神とは何か、といった自己への語りかけを、我が国の近代化になぞらえて、自己批判的に描いている。

 勝元(渡辺謙)と呼ばれる最後のサムライは、西郷隆盛だろうと思う。
彼は天皇(中村七之助)の御前会議に出席する身でありながら、結局、新しい時代に適応できずに、逆賊となっていく。
いつの時代も、古いものは気高く神々しい。
それに対して、新たなものは、ヤクザ的で妖しげである。
滅び行くサムライは気高く、新興階級の男は欲深げである。
新興勢力とは正統性がないがゆえに、新興なのであり、新興であること自体が卑猥な存在である。

 情報社会へと入ろうとする今、工業社会の正統性に代わる権威は未だない。
とすれば、工業社会の正しさに、後ろ髪を引かれる。
このまま、情報社会へと突き進んで良いのだろうか。
こうした疑問は、当然に生じる。
そうした疑問が、チベットやアフリカなどを舞台にした、映画を撮らせてきた。
時代の価値観が混迷するなかで、アメリカは後れて近代化した我が国の様子が、とても気になったのであろう。


 我が国において、この映画が描くような精神性は、とっくの昔に消滅している。
日本人自身がサムライ精神を否定し、サムライ精神を積極的に棄てたがゆえに、近代諸国の仲間入りができた。
今、サムライ精神を持っていたら、現代社会を生きていけない。
身分社会でのみ、サムライ精神は意味があった。
禁欲的に生きることは、階級社会でのみ可能である。
男女が平等な社会では、サムライ精神は時代錯誤である。

 サムライ精神は、この映画を撮った人たちが、必要としているように思う。
新たな時代を切り開くとは、精神において渇望があることだ。
アメリカは情報社会という新たな時代を切り開こうとしているから、工業社会の価値観を棄てざるを得ない。
そこで精神の飢えにさいなまなれる。
時代の転換点では、つねに古い歴史が顧みられる。
しかし、いまだ近代の終焉を、自覚していない我が国では、精神に飢えていないから、こうした映画は不要である。

 一見すると、オールグレン大尉が異国の地に来て、その落差に驚く様子を描いたように感じる。
しかし、真実は反対である。
むしろ、彼は新興階級でにではなく、滅び行くサムライに共感する。
結局、アメリカにも反逆してしまう。
そして彼は、サムライの村へと戻っていく。
オールグレン大尉も、新たな時代についていけない人間だった。
精神が人間を支えるとすれば、彼の悩みは、本当に人間であるがゆえの悩みである。

 賊軍となって討伐される勝元が、美しい死に様を見せるとき、敵対する兵士たちが深々と頭を下げる。
自決する勝元に、兵士たちは尊敬の念で頭を下げる。
敵の姿に共感するのは、同じ価値観を共有する者たちだからである。
この映画は、志に殉死する美を描いている。
敵対する人々が、同じ価値観を持っていたがゆえに、このシーンが可能だったのである。

 死に行く勝元には、正義があるかも知れないが、滅び行く正義にしか過ぎない。
勝元の考えは、固定した身分社会でしか、通用しない価値感である。
固定した身分社会が崩壊してしまうのだから、彼がどんなに人が良くても、彼の存在自体が時代錯誤である。
しかし、人々は同時代に生きているから、勝元に共感できる。
決して新しい時代には、真っ当な正統性がない。


 勝元の生きた時代とは、役割に生きた時代だった。
彼は個人的な恨みで殺したわけではない。
ただ殺すという仕事をしたに過ぎない。
戦場で殺し合っても、それは自分の役割を果たしたに過ぎず、自分の個人的な心情とは別である。
だから、殺しが終われば、敵だった相手と仲良くなれる。
それが近代になると、個人が自立したので、自分が殺すことを自覚せざるを得なくなった。
仕事として殺す自分と、殺す自分の乖離に悩むのが、近代人である。

 オールグレン大尉は、まさに近代人の悩みを悩む。
しかし、勝元は前近代を美しく生きる。
オールグレン大尉に自分の夫を殺されたタカ(小雪)が、辛うじて近代人の悩みを悩む。
戦場でオールグレン大尉に自分の夫を殺されながら、彼女はオールグレン大尉に愛情を感じてしまう。
ところで、勝元の死に頭を下げた兵士たちは、男性だったからである。
志に共感するのは、観念のなせることであり、思想を共有していることの現れである。

 兵士が脱帽するシーンに、女性の観客はジーンと来なかったに違いない。
今まで、女性は人間として志を共有してこなかった。
だから、近代では二流の市民と扱われたのであり、二流であるがゆえに実利を選択しても、名誉を問われることはなかった。
志のないところには、精神は存続できず、精神がないところでは敵と共感することはあり得ない。
しかし、女性も自立した。
今後は、女性も精神を語り、名誉を重んじるようになるだろう。

 アメリカでセットを組み、アメリカで撮られた映画である。
この映画が、事実に拘る姿勢には、本当に感動する。
村の風景や、市井の人々の仕草など、実に良く研究されている。
庶民たちの腰の低い歩き方、庶民と武士の違いなどなど、本当に良く研究している。
馬が西部劇だったり、登場する兵士の歯並びが良かったりは、ご愛敬であろう。
また、あの頃には、機関銃はなかったことなども、目をつぶろう。
(機関銃に関して下記を参照)

 渡辺謙が、トム・クルーズと充分に渡り合った演技をしていたし、氏尾を演じた真田広之の身のこなし、立ち振る舞いが、きわめて美しかった。
そして、トム・クルーズの監視役をやった武士の福本清三が、じつに良い雰囲気を出していた。
ナンバ歩きや武士の所作を身につけているかが、演技に奥行きを出していたとすれば、我々はいまだに農耕社会から逃れていないのだろうか。
そう思うとき気になるのは、この映画は日本を途上国と見ている視線が、潜んでいることだ。

 勝元を演じた渡辺謙は、演技の下手なトム・クルーズを、画面上では喰っていたように思う。
精神性を突き詰める姿勢の真摯さに、改めてアメリカの底力を感じた。
何に美を感じるか。
新しいものは、美といえるまでは純化されていない。
しかし、不確実な中に美を発見していく。
過去を参考にはするが、視線はあくまで未来である。
2003年アメリカ映画
(2004.01.16)

 下記のようなメールをいただいた。ご指摘、大変に感謝です。
 「機関銃はあの時代既に日本にありましたよ。幕末、越後長岡藩、佐賀鍋島藩などは、既に、もっていました。実際に戦場で使用したのは越後長岡藩が官軍と戦った、戦争くらいだと思いますが。当時の日本諸藩の武力では圧倒的すぎて、使うのをためらったという話も聞いたことがあります」(2005.04.07)

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