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監督自身の実体験だという。 大人が子供によって生かされたという主題が、いかにも現代的である。 最後の字幕に、死んだ子供のフランキーに捧げるとあり、困難だった時代の決算をしているようだ。 状況の設定は過去だが、主題は将来を見つめている。
俳優志望のジョニー(バディ・コンシダイン)とサラ(サマンサ・モートン)は、2人の子供クリスティ(サラ・ボルジャー)とアリエル(エマ・ボルジャー)とともに、カナダ経由でニューヨークのハーレムにやってくる。 アイリッシュの彼らは失業し、アメリカへと新天地を求めてやってきた。 彼らには、かつてフランキーという男の子がいたが、2歳の時に亡くしてしていた。 子供を失ったのは事故だが、その責任をめぐって、2人は自責の念に苛まれている。 ハーレムでの暮らしは厳しい。ジョニーはオーディションを受けるが、俳優の仕事にはなかなか出会えない。 しかし、貧乏な生活でも、家族は仲良く暮らしており、やがてサラは妊娠する。 そんな中、同じアパートに住むマテオ(ジャイモン・フンスー)と仲良くなる。 彼はアフリカから来た黒人だろうか、エイズにかかっており、余命幾ばくもなかった。 愛し合う夫婦。 しかし、貧しさから大人たちは、ともすれば諍いが起きやすい。 そこで家族の支えになったのは、じつは子供の存在だった。 厳しさに負けそうになる大人を勇気づけたのは、子供とくにクリスティだった。 大人が子供を育てるのではなく、大人は子供に元気を貰っているのだ。 貧しい日常生活を、長女クリスティの目を通して、暖かく描いている。 多くのアイルランド人が、アメリカへと移民した。 彼らもその末裔であるが、今日移民してくるのは、厳しい生活が待っている。 新世界は必ずしも天国ではない。 アメリカは医療費が高い。 子供の出産に3万5千ドル(約400万円)かかった。 もちろん貧しい彼らに払えるはずがない。 すると、エイズで死んでいくマテオが、支払ってくれていた。 マテオの命は、生まれてくる子供に、引き継がれた。 大人たちが偏見にとらわれたり、猜疑心で行動しがちなときに、子供は自由に優しい心で生きる。 子供たちは地元の人たちとも、たちまち仲良くなる。 最初のうちは、クリスティの存在は影が薄い。 徐々に彼女の存在が、大人たちの生活を支えていることが描かれていく。 今まで、大人が子供を育ててきた、と考えてきた。 大人は子供を教える立場ではあれ、子供から教えられる立場ではない、と見なされてきた。 しかし、事情は変わってきた。 新しい社会に、大人は対応できない。 今までの社会は、変化の速度が遅かったので、価値観が完成した人間でも、何とかやってこれた。 ズレは少しづつだったから、大人も時代についていけた。 しかし、今日のデジタル社会には、大人たちはついていけない。 にもかかわらず、大人が子供を育てようと考えている。 大人の意識は古い。それを大人は自覚していない。 大人の老後には、子供の存在が不可欠だった。 子供にとって大人が必要だったのではなく、大人にとって子供が必要だった。 大人は子供を育てると思っていた。 大人は子供に対して、傲慢だった。 事情は反対である。 大人が子供に支えられていた、それが実際の話だった。 この映画は、そうした時代の転換点に、現実をよく見ている。 我が国では、子供をいかに育てるか。 子供の勝手放題をいかに強制するかといった、大人の都合からしか子供を考えていない。 大人より子供は劣った存在であり、大人は子供を教え導くものだ、という誤った偏見が染みついている。 大人からの視線の有効性が失われているという認識が、我が国ではどうしても共有できない。 大人は子供に支えられる、それが情報社会の現実なのだ。 「父の祈りを」や「ボクサー」などの作品傾向から見る限り、この監督には情報社会云々という認識は薄いだろう。 むしろ前近代的な土着派だと思う。 しかし、時代と共感するセンスというには、表現者に特有のものである。 子供の役割の変化に気づいている。劇場プログラムによれば、監督の子供たちが脚本制作に係わったという。 そうした意味では、素直な感性である。 前近代では、子供は天からの授かりものであり、子供を作るという発想は持ちようがなかった。 そして、子供は育つもので、大人は援助しているに過ぎなかった。 避妊が自由にできるようになったので、子供を作るという発想が生まれ、作った子供は育つのではなく、育てるものになった。 子供を育てるという感性が、近代のものなのだろう。 近代の子供観は限界に来ている。 むしろ、インディ系の実験的な小品である。 「父の祈りを」のほうが、完成度は高かったし、監督の熱も入っていただろう。 しかし、この作品を流れる時代認識は、まごうことなき同時代のものである。 主題さえ同時代的であれば、お金はそれほどかけなくても、見るに耐える作品は可能だという見本である。 サマンサ・モートンと2人の子供の演技は、実に上手い。 とりわけ、10歳そこそこの子供の演技は、子供という次元で評価すべきではなく、1人前の演技者としてみるべきだろう。 クリスティを演じたサラ・ボルジャーは、大人と同じ基準で評価して良い。 子供の時代だという当サイトの主張が、そのまま映画化されると、いささかの戸惑いを覚えるのも事実である。 しかし、他から当サイトの主張と共鳴する発言がどこにも生まれてこない。 我が国の映画を見る目の貧しさに憮然とする。 2003年アイルランド、英映画 (2003.12.26) |
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