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マフィアのボス、ポール・ヴィッティ(ロバート・デ・ニーロ)が神経症になって、精神科医にかかるという「アナライズ ミー」の続編である。 ポールがシンシン刑務所に収監されたところで、前作は終わっていたが、この映画ではその続きが始まる。
ポールは出所を画策して、精神病を仮病する。 刑務所は彼を街に戻し、抗争の火種をまき、それを手がかりにしてマフィアを壊滅しようとする。 前回と同様、ベン・ソボル医師(ビリー・クリスタル)が身元引受人となって、ドタバタのコメディが始まる。 それなりに面白くは見せるが、やはり前作ほどの衝撃力はない。 フロイトの精神分析理論が下敷きになっているが、今回はあからさまにフロイトの名前はでてこずに、精神分析はむしろ脇役になっている。 堅気の世界とマフィアの流儀が錯綜して、そのズレが生み出す勘違いを面白く見せている。 芸達者な役者たちと相まって、2時間を楽しく見ることができる。 それにしても、ロバート・デ・ニーロはマフィアにはまりきっており、日本人の男優がヤクザ役が似合うように、彼らもマフィアが似合う。 堅気の人たちの世界に、マフィアたちがどっと繰り出してくると、まったく違う空気が現出されるのも、我が国のヤクザとよく似ている。 マフィアやヤクザには、いわば肉体勝負の世界が残っているので、今日的なデスクワーク中心の世界では異質なのだろう。 たぶん、明治や江戸時代には、全員がああした雰囲気を持っていたに違いない。 ずいぶんと遠くへときてしまった。 ポールが刑務所から出所してくるときには、無精ひげでしょぼくれていたが、年寄りが無精ひげにすると実に惨めである。 そのあとで、ポールがバリッとした格好をすると、それなりに押し出しも貫禄もある。 やはり年を取ったら、身だしなみに気をつけろと言うことだろうか。 それにしても、アメリカ人たちは父親のプレッシャーから、自由になることがとても難しいようだ。 前作でもポールが、父親のトラウマに苦しむという話が出ていた。 今回はポールだけではなく、精神科医であるベンのほうも、父親コンプレックスに悩んでいたというのだ。 しかも、2人は同じ悩みを共有して、犯行現場で泣き出す始末である。 日本では母子との関係が重視されてきたが、アメリカでは父子の関係が圧倒的に優勢である。 これもおそらく近代化と密接に絡んでいるのだろう。 自然なる存在としての母親が、不作為を象徴して前近代を代表すれば、父親は人工的な論理の世界を象徴している。 だから、近代しか存在しないアメリカでは、母の影が薄く父子物が繰り返し描かれる。 それに対して前近代を引きずる我が国では、母子物が多かったのであろう。 女性が自立して、男女の役割に違いがなくなると、親子関係も変化する。 情報社会では親子関係は、父子と母子のどちらに収斂するのかと言えば、言うまでもなく父子関係である。 母は存在するだけで意味があり、いわば自然そのものであって、作為的な文化の象徴ではない。 父=男性こそ、自然を支えとした既存の権力に反逆して、近代を作り上げてきた。 だから、母子間系から父子関係へと、変わっていくのは不可避である。 最後に、NG集が数カットでていたが、これが実に笑えた。 本編よりはるかに面白く、役者さんたちも大変なのだと思わせた。 2002年アメリカ映画 |
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