タクミシネマ          海辺の家

海辺の家   アーウィン・ウィンクラー監督

 大きな主題を扱っているわけではないのに、いい映画に仕上がっている。
主役こそジョージを演じたケヴィン・クラインと、ロビン役にクリスティン・スコット=トーマスが配されてはいるが、他に有名な俳優がでいるわけでもない。
爆発もない、大規模なSFXもない、にもかかわらず心に染みこんでくる。
海辺の家 [DVD]
劇場パンフレットから

 ジョージは模型制作の職人として、建築の設計事務所で長く働いてきた。
若かったときは、建築に燃えていたのかも知れない。
その情熱に惚れたのだろう、ロビンと結婚し子供ができた。
サム(ヘイデン・クリステンセン)と名付け、かわいがってきたが、2人は離婚した。
ジョージは貧しいが、ロビンは裕福なサラリーマンと結婚し、他に2人の子供に恵まれた。

 サムはロビンに引き取られたが、12歳の時から麻薬はやるし、ピアシングはするで、不良になっていた。
家でも母親がもてあまし、継父ははれ物にさわるようだった。
そんな時、ジョージはガンであと数ヶ月の命と宣告される。
また同時に、設計事務所を解雇された。
建築模型の職人が、解雇と同時に死ぬとは、職業自体がなくなっていくことを象徴している。


 ジョージは自分が死ぬにあたって、2つのことを成し遂げようと決意した。
まず、自力で家を建て替えること、そして、息子のサムを家造りに参加させること。
彼は強引にサムを引き取り、家作りをはじめた。
最初は反抗的だったサムも、徐々に心を開いてくる。
家作りという肉体労働は、人間が直接にぶつかるので、心が交流しやすい。

 隣家の寡婦コリーン(メアリー・シティーンバーゲン)やその娘のアリッサ(ジーナ・マローン)それにサムの悪友、ロビンの現在の家族と、さまざまな人たちが絡みながら、家作りが進む。
そして、物語はジョージの死へと向かっていく。

 肉体的な手応えが減りつつある現在、家をつくるというきわめて肉体的な作業をとおして、心の交流を描いている。
設定はよくわかる。
コンピューターのような頭脳労働が、人間を疎外している。
現代社会はますます非人間的になっていく。
だから、家作りのような具体的な作業には、心がときめき全員が参加したがるだろう。

 しかし、この発想は懐古主義である。
肉体労働を趣味としてやるから、心が洗われたように感じるのである。
もし、家作りを職業にしたら、つまり職人になったら、肉体労働の繰り返しが、否が応でも毎日続く。
肉体労働は偏屈で因業な性格を形成させる。
肉体労働が主流だった時代には、身分制という魔物が社会を支配しており、職人たちは底辺の人間として蔑まれた。


 情報社会になって、肉体労働に従事するのは、時代に逆行している。
社会とは離れた独自の価値観にもとづいた肉体労働、これは趣味である。
趣味が趣味であるうちは、どんな仕事も楽しい。
それが生業となったとき、圧倒的な力で人間の性格をねじ曲げ、その生業特有の性格を形作るのである。

 ジョージに限らずロビンたちも、サムの逸脱には手こずっている。
16歳の高校生であるにもかかわらず、ピアシングやどぎつい化粧など、大人たちは見るに耐えない。
ここでは高校生のサムが逸脱し、大人たちの生活が正常と捕らえられている。
しかし、それが正しいのだろうか。
サムの行動は逸脱なのだろうか。

 バイトでホモの相手をしたら、警察の手入れにあって、サムは危うく捕まりそうになる。
化粧やピアシングもやめ、麻薬もやめる。
サムが父親のジョージに寄ってくるかたちで、物語は進行する。
しかし、大人でも化粧している男性はいるし、ピアシングしている人もいる。
もちろん軽い麻薬つまりマリファナは、アメリカではいまや天下御免である。

 化粧をやめ、大工仕事に精をだすサムは、たしかに健康的になった。
しかし、化粧をしてピアシングしていたサムのほうが、はるかに格好良かった。
人生に悩む16歳が、自分の人生に手応えを求め、呻吟する様がよく伝わってきた。
青春とは労働を猶予された時代である。
労働が与えてくれる存在証明がないのだから、青春時代には悩んで当然である。
肉体労働に精をだすことによって、健康になり悩みを持たなくなるのは、青春期としては不自然である。

 そう考えれば、この映画には変なことが多い。
ロビンは離婚しても専業主婦のままだし、隣家のコリーンは娘のボーイフレンドと寝てしまう。
娘はそれを知っても、顔色一つ変えない。
サムとアリッサが、一緒にシャワーを浴びても何事もおきないし、ロビンの夫ピーターは突然に家を出てしまう。
肉体労働が主流だった時代には、こんなことはおきなかった。
だから、父親に子供は逆らえなかったのだ。


 情報社会では年齢秩序が崩壊し、子供も1人前の人間として自立を迫られるから悩むのだし、大人が年長であることに自信を失う。
豊かな社会では、考える時間がたくさんあるので、誰もが自分の存在証明を求めて呻吟する。
神さまが生きていた時代なら、神さまが存在を証明してくれた。
今は誰も生きる意味を教えてくれない。
だから余計に、自分の生きる意味を知りたい。
そのために悩む。

 個々人の存在証明を考えずに、親子関係だけをかつての時代に戻そうとしても無理な話で、その意味ではこの映画は時代錯誤といっていいだろう。
そうでありながら、家族を考え直すという意味でも、良い映画であることは事実である。
主題の方向が時代とは違っても、必ずしもダメな映画にはならない希有な例だろう。

 大西洋の向こうに沈む夕日がとてもきれいで、家をつくる=肉体労働のてごたえが、楽しさとともに伝わってくる。
近くに建つ家は、どれもお金持ちそうで、登場する車はメルセデスが多い。
趣味としての家作りが成り立つのは、やはり裕福な人たちのあいだでだろう。
サムがホモの相手をする男性の車が、レクサスというのは日本車への皮肉なのだろうか。 

 メジャーの映画としては珍しく、フジフィルムを使っていたが、色がやや濁っていたように感じた。
海辺の撮影は、露出が難しい。
逆光になったときに、人物がつぶれていたのはわざとやったんだろうが、もう少し人物を出しても良いように感じた。
映画のフィルムは、コダックの牙城だったのだが、着々と実績を上げつつある。
星を付けるには至らないが、肯定的な評価をする。

2001年のアメリカ映画   

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