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前作「メン イン ブラック」が好評だったので、シリーズ化されたのだろう。 アメリカ映画としては珍しく監督も同じだし、トミー・リー・ジョーンズもウィル・スミスも、同じように黒服で出演している。 しかし、前作の迫力はもうない。
宇宙からの地球移住者たちを、一般人の眼から逸らすために、MIBは日夜活躍している。 この設定はとても面白いが、話が高尚になりすぎた。 映画のディテールは、前作よりはるかに上がっているが、映画のおもしろさはディテールではない。 ハラハラドキドキの顛末こそ、観客を魅了するのだ。 前作も哲学的な認識論が背後にかいま見えたが、この映画は知が勝ちすぎている。 エージェント:Kに扮するトミー・リー・ジョーンズが、郵便局長だというのは良いが、彼をMIBに引き戻すために理論的に説明しすぎる。 元来が荒唐無稽な話なのだから、話のつじつまを合わせる必要なんて、まるでない。 にもかかわらず、映画製作者たちは話のつじつまを、合わせることに必死である。 エージェント:Jのウィル・スミスも、前作のような歯切れの良さがなくなっている。 若くしかも運動神経のいい彼のウリは、軽くてスピーディなことだ。 それが偉い主任エージェントに出世しては、軽さがちっともないではないか。 敏腕エージェントでも良いが、彼のキャラクターは体力勝負のおっちょこちょい、といった役回りだろう。 それに宇宙からのエイリアンたちも、造形的にネタがつきたようだ。 前作の踏襲部分は良いとしても、新たなエイリアンには新鮮味がない。 蛇のようなくねくねは、もう見飽きたと言いたくなる。 もちろん宇宙人を想像するのは、ほんとうに難しいのはよくわかる。 しかし、新しいエイリアンが思い浮かばなかったら、シリーズ化するのは留保すべきだろう。 SFXの技術は前作より格段に進歩しているが、表現を理屈で納得させようとしている。 映画という映像表現は、感性に訴えるから映像表現なのであって、理屈に訴えたのでは芸術の表現ではない。 この映画が哲学的な高度さをもったことも理解するが、哲学するのだったら映画にする必要はなく、文字で書けばいい。 ピカッとやって記憶を消すことに、抵抗感がでているのは、記憶=人間をいじることへの躊躇だろう。 自己を客観視する自己相対化は、いつも自分が中心であるアメリカ人には少ないスタンスだが、このスタンスを映像として見せてくれなければ、映画ではない。 知のかった映画は、面白くない典型だった。 この映画の最後にも、日本人らしき名前が4人もあがっていた。 しかも、1人は女性のスタント・ウーマンだった。 アニメの技術者なら、すでに日本人もたくさん活躍しているようだが、女性スタントというのは始めてである。 声援を送りたい。 2002年のアメリカ映画 |
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