タクミシネマ         マジェスティック

 マジェスティック   フランク・ダラボン監督

 戦争に勝った国が、みずからの価値を噛みしめ、何度でも確認する映画。
そんな感じにおそわれた。
民主主義、自由、信教・集会の自由、そうした価値を守るべく、アメリカの上質な人たちは、戦場へと赴いた。
それに対して、わが国の上質な人たちは、天皇中心主義と八紘一宇の価値を守るべく、戦場へと赴いた。
負けたから言うのではないが、わが国は敗れて本当に良かった。
もし天皇の軍隊が、第二次世界大戦で勝利していたら、わが国において自由や個人の自立は、今でもあり得なかった。
マジェスティック [DVD]
劇場パンフレットから

 マッカーシー旋風が吹きあれた1950年代のアメリカ、ハリウッドには赤狩り嵐が襲っていた。
楽天的な脚本家のピーター(ジム・キャリー)は、共産主義者として審問会に召還される。
共産主義者でないにもかかわらず召還され、恋人にも逃げられてしまう。
納得できない彼は、酒に憂さを晴らそうとする。
その晩、彼は車を走らせて、川に転落し流されてしまった。
幸運なことに、小さな町ローソンの海辺に漂着したが、記憶がなくなっていた。

 政治にまったく興味のなかったピーターだが、今では記憶自体がなくなっており、自分がどこの誰だかも判らない。
そんな時、ピーターを自分の息子ルークだ、という老人ハリー(マーティン・ランドー)が現れた。
戦争で行方不明になった息子が、帰ってきたと勘違いしたハリーは、大歓迎である。
小さな町であるローソンは、たくさんの兵士を出兵させ、しかも62人という大勢の若者を戦死させていた。
そこへルークの帰還である。町をあげて歓迎されたが、やがて現実が迫ってくる。


 FBIの追求は、ローソンのピーターにも及び、審問会へと召還される。
そのとき彼の記憶は戻り、現実に目覚める。
そして、司法当局と取り引きせよという、弁護士の指示に従うつもりになった。
しかし、ルークの恋人だったアデル(ローリー・ホールデン)の励ましにあって、彼は刑務所へ収監されるのを覚悟で、民主主義の原則を述べる。
それはアメリカの自由と独立をうたう、憲法の精神そのものだった。

 記憶喪失という便利な状況設定だが、この映画では記憶喪失が逃げとして使われていない。
むしろ、記憶喪失であることによって生じた仮想の現象を、民主主義を確認する試金石として上手く使っている。
もしこうだったらという設定は、この映画ではとても有効である。
とりわけ9.11以降、アメリカは大政翼賛的になり、アメリカ政府批判を許さない空気がある。
それはソ連の後塵を拝していた冷戦初期の状況と同じであろう。
マッカーシー旋風は、アメリカがソ連に負けるかもしれないという、一種の恐怖心からおきたことである。
そこでアメリカの価値の確認である。

 マッカーシー旋風を克服した後のアメリカは、超大国への道を進むのだが、その道は中央からの強権的なものではなかった。アメリカの発展は、自立した個人の自発的な努力によるものである。自由こそアメリカなのだ。それを振り返れば、個人の自由がいかに大切か、よくわかるはずだが、時として自由の賛美は放任ととらえられ、中央からの管理の必要性が叫ばれるときがある。決してそんなことはない。鈍く見えるかも知れないが、自由な個人の創意こそ社会を発展させるものである。


 わが国では、個人的な自由の賛美は、支配者たちには評判が悪い。
それは政治的な支配者だけではない。親という支配者は、子供に自分と同じ自由を認めたがらない。
自由よりも強権的な管理が、社会を発展させると考えているようだ。
それにたいしてこの映画は、徹底した自由の賛美である。
最後にピーターが、審問会で証言するシーンは、自由と民主主義の原則をのべて、ほんとうに涙がでた。
青臭いかも知れないが、民主主義の原則こそ、かけがえのないものである。

 この映画は、自由と民主主義の賛美という主題が、じつにはっきりしている。
「ショーシャンクの空に」でも、この監督は個人的な自由を絶賛していたが、この映画でも自由の大切さを訴えている。
しかし、若干の危惧もある。
グリーンマイル」と続く作品では、個人的ながんばりに訴えすぎるように感じる。
平時では誰でも自由が大切だというが、自由か監獄かといった選択を迫られるのは、いわば異常時である。
そのときになって、個人的ながんばりに期待するのは、いささか無理があるように思う。

 天皇制やナチズムが明らかにしたように、人は誰でも狂信者になる。
賢い人でも、ある状況下では率先して、天皇を賛美してしまう。
戦争に負けた国の人間は、個人のがんばりには期待しないが、勝った国の人間は個人賛美になるのだろうか。
もちろん民主主義が、個人を支えとするからなのは理解するが、やはり戦勝国は楽天的になるのだろう。

 毎度のことながら、アメリカは古いものをよく残している。
1950年代の車やファッションなど、男が男であり、女が女であった時代の雰囲気がよく伝わってきた。
いまでは男も女も、人間になってしまった。
ユニセックスの時代には、性的な臭いを振りまくことが、はばかられるようになった。
それはそれで良いことだと思うが、セクシーな女性たちの姿を懐かしく感じもする。


 古いものをよく残しているアメリカだが、メルセデスの220コンバーティブルを、激流に突きとして毀してしまう。
いまから50年も前の車を、惜しげもなく毀してしまう映画作りには、何とも言えない感情が残る。
しかし、よく見ると毀しているようだが、スクラップ状態にはしていなかった。
古いメルセデスを毀すのは、やはり内心ではハラハラしているのだろう。
コンクール・コンディションの車なのだから、現場ではさぞ神経を使ったに違いない。

 記憶喪失の部分と、現実の部分では、ライティングをかえて、そられの違いをくっきりと映像化していた。
しかし、そうじて映像美には乏しく、ビジュアルを売り物にするタイプではない。
主題を前面に押しだしてくる作りである。
ピーターがルークの身代わりを引き受けてからは順調に進むが、前半が鈍くてややもたついている。
もっとテンポ良く展開しても良いはずである。

 有名な俳優は、ジム・キャリーただ一人だが、それでも充分に楽しませてくれる。
演技・演出にはいささか物足りないところもあるが、主題がきちっとしているので、最後まで集中して見ることができる。
9.11以降のヒステリックな政治状況に、正面から原則を訴える映画である。
ストレートな主張に、無条件で星一つを献上する。

2002年のアメリカ映画   

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