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きわめて難しい問題に、果敢に取り組んでいる。 こうした挑戦する姿勢が、次々と新たなものを生むアメリカの原動力なのだろう。 アメリカのフェミニズムはとうとうここまで来たかという感慨と、わが国のフェミニズムは個人と社会の違いがわからないので、この映画を永遠に理解できないだろう、と絶望的な気持ちになる。
主題はきわめて簡単、単純である。 精神年齢が7歳という知的障害者に、子育てが可能か、もしくは子育てを任せても良いのか、というものだ。 子供は親を見て育つとすれば、親は子供より優れていなければならない。 もちろん成人後には、親より優れた業績を残す人はたくさんいるし、多くの子供は親より優れているからこそ、人類は進歩してきたのだ。 しかし、7歳の知能の男性で、しかも軽い自閉症をもっているとしたら、子育てを任せるべきだろうか。 この映画は任せるべきだという立場を取りつつ、話を進めていく。 子供に大人と同質の権利を認めるこの視点は、女性が自立した今、子供が大人と同じ権利を持つという、残された最大の課題への挑戦である。 その心情は、痛いほど伝わってくる。サムに4人の友達たちが登場するが、この4人も全員が知的障害者である。 フェミニズムが主張した平等性の究極的な拡張である。 体力面の劣者たる女性が自立できることは、知的な劣者たちも自立して良いはずだ。 この4人の演技が素晴らしい。 障害者独特の顔の形態や表情が、実に上手く表される。 4人とも違う障害でありながら、実にそれらしき様子である。 演技といったレベルではなく、障害者そのものである。 ただ脱帽の演技である。 向かいのアパートに住む外出恐怖症のアニー(ダイアン・ウィースト)が、ルーシー誕生のときからサムの子育てを手伝ってくれる。 友達たちはサムの子育てを応援しているが、社会福祉事務所は子育ての能力がないとして、サムからルーシーを取り上げようとする。 かつての農耕社会なら、社会福祉事務所などなかったから、こんなことは問題にすらなかった。 性交して妊娠し、子供が生まれれば、誰かが育てた。 誰も育てなければ、その子供は死んだ。 ただそれだけだった。 人権などという概念はなかったから、知的障害者が生もうが誰が生もうが、子供が生まれたという事実だけが、子供の人生を決めた。 農耕社会では、社会は家族の問題に介入しなかったし、人間の生き死にはまったく個人と、その個人が属する家族の問題だった。 それは家族が、生産組織として体制から自立していたせいだし、支配者は直接的に個人を掌握できなかったからだ。 ところが、家族が生産組織ではなくなり、個人が社会に投げ出されると、体制は個人を直接に掌握しなければならなくなった。 それが福祉の誕生だった。 情報社会では、福祉がないと労働者を維持できない。 家族が生産組織ではなくなったから、福祉が誕生したのだから、福祉は家族を対象にしたものではなく、個人を対象にしたものだ。 かつては知的障害者がいても、それは家族の問題としてとらえたから、社会は障害者を無視できた。 しかし、福祉社会では個人を対象にするので、福祉の主体たる個人が自立できないと、福祉社会が成り立たない。 家族は複数で構成される以上、貧乏な家族と裕福な家族の違いはあっても、家族が障害家族であることはありえない。 どんな家族も必ず生産組織だった。 生産家族という緩衝帯を失った今、個人が生産者にならなければ、社会は維持できない。 障害家族はないけれど、個人といえば障害者もいる。 たとえ、知的障害をもっていても、次世代を育てられなければ、その社会は滅ぶ。 女性は職業人としても自立できたが、知的障害者は自立できるのかを、この映画は問うている。 知的障害者に対する差別の否定は、女性差別の否定とまったく同質のはなしである。 そして、女性差別がなくなると同時に、女性保護もなくなったように、差別と保護は同じことの表裏である。 だから厳しいのだ。 知的障害者も、生物的には父親や母親になれる。 それは当然である。 しかし、知的障害者が自立しているとすれば、保護がなくなることを意味している。 自立した人間は平等だとすれば、社会的に同じ扱いになり、同じ責任を引き受けることが要求される。 そして、知的障害者だから、刑罰が免責されることはない、ということになる。 責任を引き受けうる、それが子供を育てる親たる資格だろう。 この映画は危険な橋を渡りつつある。 知的障害者であっても親たりうると言うのは、知的障害者を弱者と認めないことである。 それは同時に保護をはずすことである。 この映画の主張は正しい。 情報社会では、弱者は存在しない。 誰でも平等な社会とは、誰でも同じ責任を引き受ける社会である。 とすれば、保護がなくなるのは必然なのだ。 この女性監督は、フェミニズムの主張を正確に理解している。 情報社会とは恐ろしい社会である。 人間には能力の違いがある。 足の速いやつもいれば、力の強いやつもいる。 頭の良いやつもいれば、悪いやつもいる。 そして男もいれば女もいる。 具体的な人間はみな違う。 現実の生物的な人間は、決して同じではない。 しかし、社会的な次元において、人間に違いを認めることは、情報社会においては差別なのだ。 女性という性別が、社会的な弱者として扱われることを嫌って、自立したように、知的障害者も自立を目ざす。 自立したから7歳の男性にも、子育てを認めるべきだ、とこの映画は言う。 しかし、アメリカの社会保障は、7歳の知能の男性を父親とは認めなかった。 ルーシーは施設で保護されることになり、サムは週に2回だけの面会を許されることになった。 映画は、父親サイドの立場ですすむが、結論は明示しない。 家族という共同体は、社会のまえに無力である。 と同時に、個人が自立したのだ。 この映画は、あまりにも難しい主題を扱っているがゆえに、話の展開がもたついている。 悩みながら撮影が進んだように見える。 先鋭的な問題の検討では、それは仕方ないことだ。 ミッシェル・ファイファー演じる弁護士は、結局のところ離婚する。 彼女にも子供が一人いるが、子供との時間はなかなかとれず、彼女と子供は冷め切っている。 夫は浮気の相手と一緒になってしまう。 裕福な彼女の家庭は、冷たい風が吹いている。 しかし、有能な彼女は、子供を剥奪されることはない。 暖かいサム子供と一緒にいるにもかかわらず、知恵遅れという理由で子供が剥奪される。 この映画にも、フジフィルムが使われていた。 そして、ショーン・ペンのアシスタントには、マスザワ サトという名前があがっていた。 おそらく日本人だと思うが、俳優としてはハリウッドには立てなくても、裏方としては多くの日本人が活躍し始めたようだ。 2001年のアメリカ映画 |
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