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コロンビアのゲリラ組織が、アメリカ国内で爆破テロを仕掛けた。 それに消防士ゴーディー(アーノルド・シュワルツェネッガー)の妻と子供が、まきこまれて死亡した。 政府は外交関係に配慮して、犯人逮捕に乗りださない。 そこで彼は単身で、その真相究明と報復に乗りだす。 タリバン掃討にのりだしたアメリカ軍の役割を、彼1人で実行するのである。
この映画は、2001年の秋に公開される予定だったが、9月11日にワールドトレード・センター爆破事件が起こり、あまりにも似ている展開なので、公開が見送られていた。 たしかにコロンビアとアフガニスタンの違いはあれ、話は実によく似ている。 飛行機の激突がないだけだ。 コロンビアのゲリラ基地に、単身で乗り込んだゴーディーは、ゲリラの首領ウルフ(クリフ・カーティス)の妻セリーナ(フランチェスカ・ネリー)を救助することによって、相互理解ができたと勘違いする。 セリーナは次のテロをゴーディーに告白し、彼はテロの幇助者に仕立て上げられる。 お人好しの彼は、それを防ぐためにセリーナとワシントンヘと向かう。 ワシントンへ着くと、彼女はしおらしくしている。 それは第一爆破の工作だったし、より大規模な爆破の陽動作戦だった。 ゴーディーがそれを辛くも見破り、爆破寸前でくいとめるという展開はおきまりのものだが、娯楽映画としては良くできている。 単身でゲリラ基地へ乗りこんでの大活躍は、奇想天外の展開だが、この映画の主眼はそこにはないのだから、それには目をつぶる。 それに娯東映画としては、この程度のはちゃめちゃは許されるだろう。 ただ、ミスを犯したゲリラの組織員を処刑するのに、毒蛇を飲み込ませる方法を見せるが、ああした残酷シーンはかえって信憑性を失わせる。 アメリカからの宣伝映画とすれば、ゲリラを悪者に措きたいだろうが、正義のアメリカ対悪者のゲリラという構図では説得力がない。 たしかにゲリラの資金源が麻薬だとしても、その消費地は他ならぬアメリカであり、ゲリラを支えているのはアメリカだとすら言える。 ゲリラというが、彼らは民族独立の闘士でもあり、独立すれば一国の行政官である。 ゲリラの犯行宣言にも、独立を誓うといわせている。 政治闘争は単なる物取りではない。 政治闘争とは、確信犯と確信犯のぶつかり合いである。 正義と正義の衝突だから、かんたんにゴーディーを信頼して、テロを止めることなどあり得ない。 そうした意味では、妻セリーナの裏切り偽装は、実に説得力があった。 「ソードフィッシュ」のときは、アメリカでものが見えている人たちは、国際情勢を理解しているのかと驚いた。 しかし、この映画を見た後では、9.11はアメリカ政府によって黙認されていた、という意見に信憑性を感じ始めた。 田中宇氏らによれば、アメリカ政府はワールドトレード・センターヘのテロを事前こ察知していたが、タリバン攻撃の正当性を入手するために、彼らの攻撃を黙認したという。 太平洋戦争のときも、アメリカは真珠湾攻撃を事前に知りながら、参戦の正当性やアメリカ国民の士気高揚をねらって、日本軍の攻撃を黙認したという説がある。 今回も皮を切らせて骨を断つための、囮として黙認されたのが、9.11だったというわけである。 その証拠として、さまざまなものがあげられているが、当初それは信じられなかった。 しかし、この映画を見ると、あまりにも正確に予測されすぎている。 製作者たちが時代の空気を読んで、この映画をつくったと考えるのは、ちょっと政治にウブすぎるように思う。 ベトナム戦争から、すでに長い時間がたった。 湾岸戦争こそあったが、他に大きな紛争は起きていない。 冷戦の終結で、アメリカ軍は規模縮小に向かっている。 軍や国防組織それに軍需産業が、自分たちの存亡に危機感を抱いたとしても、なんら不思議ではない。 どんな組織も自己保身が働くものだ。 映画製作者たちの予測よりも先に事件が起きてしまい、公開には悪い時期になったことなど、いくつかの予定外が発生しただろう。 しかし、基本的な現状としては、テロを囮として利用した可能性は否定できない。 とりわけ今までユダヤ人から距離をとっていた共和党が、ユダヤ人よりになってきたことは、不気味なものを想像させる。 イスラエルを支持するがゆえの反アメリカはあっても、かつてアメリカは、イスラム諸国とそれほど不仲ではなかった。 アメリカのアラブ使い捨てが、反発を招いたというのが実情だろう。 冷戦の時には、対ソ連への防波堤としてアラブの小国を使って、冷戦が終わったから援助をうち切るのでは、身勝手と受け取られても仕方ない。 国際政治にアメリカは、実にウブだと思う。 アメリカは裕福になって、国内的には民主主義が実現した。 近代は個人に自立を強い、自立は孤独をもたらす。 アメリカ人はそれには耐えうる。国内的には、近代の心性を獲得した。 しかし、国際政治は相変わらず、前近代とのやりとりである。 国際政治とは力のやりとりであって、正義のやりとりではない。 アメリカ人は民主主義という唯一の正義が世界中で通用する、と思っているかのようだ。 1人の命は地球より重いのは事実だが、それは近代の思想であり、前近代ではそうではなかった。 人間も自然の一部であり、神の支配する自然のほうが、はるかに重かった。 今アメリカが闘う相手は、神の生きている前近代の国だ。 ドラマチックな救出劇には、アメリカ人はいくらでもお金をだす。 アメリカ人はヨーロッパ人のようには、人種差別をしない。 どんな国の人間でも、命の重さは同じだと考えている。 そうした意味では、きわめて平等思考の強い近代人である。 しかし、この近代人であることが、前近代社会と摩擦を起こす。 アメリカがアメリカの信じるものに、忠実であればあるほど、神を信じる途上国とはうまくいかない。 ましてや情報社会という後近代へと、アメリカだけが進んでいく。 人権といった理念は、前近代人には判らない。 中国にしろわが国にしろ、人権を大切にしないと、アメリカと上手くやれないから人権を大切にしているだけだ。 自立とは孤独である。 孤独な近代人は、前近代から見ると、神の仕事を奪っているのだ。 近代人は神の領域に生きるから、尊大で傲慢にみえる。 前近代人には、近代人の孤独は理解できない。 アメリカは今後、神を信じる途上国と摩擦の連続だろう。 善意あふれる近代人たるアメリカは、好意をもって途上国に対応するに違いない。 しかし、好意ある対応それ自体が、摩擦のもとになっていく。 冷戦が続いていた時代には、アメリカが西側世界の警察官だったが、いまや世界を二分する冷戦はない。 世界の警察官は不要である。 アメリカが今までのように、世界の秩序維持に邁進すると、アメリカは孤立していくに違いない。 アメリカは自国の領土へと、徐々に収まっていくしかないだろう。 神の支配にプロテストしてしまったアメリカは、永遠の青春を生きなければならない。 近代人というアダルト・チャイルドは老成しないから、国際政治を操るのは下手である。 アダルト・チャイルドのアメリカ人では、「クワトロ・ディアス」のような強かな政治映画は作れない。 テロとはテロを行うのが正しいという、政治的な信念の行為であるだけに、この映画はアメリカの困難さを、いやでも浮き彫りにしている。 蛇足ながら気になったのは、多くの場所にテレビカメラが設置されており、24時間体制でモニターされていることだ。 わが国でも新宿の歌舞伎町には、テレビカメラが設置されたと報じられたが、情報社会とは個人の行動が監視され、プライバシーが権力によって侵される社会でもあるのだろうか。 2001年のアメリカ映画 |
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