タクミシネマ         ソード フィッシュ

ソードフィッシュ  ドミニク・セナ監督

 ハッカーを使って、銀行のコンピュータに入り込み、お金を盗むギャング映画である。
しかし、これはふつうの善玉悪玉のギャング映画ではない。
銀行強盗の目的が、テロの撲滅という正義を実現するためである。
テロがらみの設定は、先の同時多発テロを連想させる。
アメリカ映画界の底力を見る思いである。

 ロス・アンジェルスの飛行場で、フィンランド人のハッカーが拘束される。
そして、飛行場内の警察で、彼は何者かに殺されてしまう。
次に、史上最高のハッカーといわれた男スタンリー(ヒュー・ジャックマン)が、ギャングの誘いにのって銀行のコンピュータにはいり、パスワードを解いてしまう。

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 それだけでは済まなかった。
ギャングの親玉ガブリエル(ジョン・トラボルタ)は、実際に銀行へ乗り込んで仕事をする。
犯人たちはちょっとした軍団規模で、人質に爆弾を巻き付けて、仕事が終わると人質もろともにバスで逃亡する。

 犯人たちを乗せたバスは、飛行場へ向かうが、途中で方向を変える。
そして、高速道路上でヘリコプターによってバスごと吊り上げられ、ビルの屋上へと降り立つ。
そこにはもう一台のヘリコプターが待っており、犯人たちはヘリコプターで逃走するが、ヘリコプターは簡単に撃墜されてしまう。
犯人たちは死体となり、事件は解決したかに見える。
しかし、犯人たちはヘリコプターには乗らず、歩いて逃亡したのだった。

 映画はこれで終わるが、この映画の主題は、ここから始まる数カットに集約されている。
逃亡後、モンテカルロに現れたガブリエルは、予言通りにテロリストたちを次々に殺していく。
つまりこの映画は、アメリカへのテロに抗して、非合法の手段でテロリストを抹殺するのが主題である。
資金稼ぎのための銀行強盗だったわけである。

 民主主義は手続きが煩雑である。
たとえ犯人であっても、証拠がなければ逮捕されないし、裁判を経ずに殺されることはない。
犯人にも人権がある。
しかし、最近のテロは犯罪というより、戦争に近くなってきており、9月のニューヨークの事件では、数千人が死んだ。
それに対してアメリカ政府は、強硬な対策がうてない。
テロリストを人間として扱い、甘やかしているというわけだ。

 映画製作者たちは、政府の甘いテロ対策を批判し、強硬なテロ対策をうちだす。
それが民間人によるテロリストの暗殺である。
そのためには軍資金が必要だから、犯人たちは銀行に押し入るというわけである。
しかも、テロリストを殺すためなら、多少の犠牲はしかたないと考える彼らは、市民の巻き添えにも良心の痛みを感じない。


 基本的人権を否定するこの映画の主張は、危険な臭いがする。
しかし、映画界がもつアメリカの現状への認識力には、驚嘆させられた。
アーノルド・シュワルツェネッガーが消防士に扮してテロと戦う映画が、今度の事件とあまりにも似ているので、公開中止になったと聞いていた。
この映画も事件とよく似ている。

 9月の事件によって、この映画が作られたわけではない。
映画の製作に着手されたのは2・3年前だろう。
アメリカの映画製作は、時代を敏感に反映する。
シュワルツェネッガーの映画といいこの映画といい、テロがあるだろうとアメリカ中が察知していた、ということだ。
それが反テロ映画の製作を促しているに違いない。
それほどアメリカは緊迫していた。
しかし、状況を先取って映画化する力には、驚嘆のほかはない。

 わが国では、9月の事件は突然に起きたように感じるが、じつはすでに前触れがあって、アメリカの物を考える人たちは、テロを予期していた。
テロを察知しながら、それを防げなかった。
ここまで状況が切迫していれば、CIAやFBIが非難されるのは当然だろう。
そう思える。
とすると、わが国は何と平和なことか。

 謎の美女ジンジャー(ハル・ベリー)の設定や、たくさんの仕掛けを作り、多くの物を壊し、バスをヘリコプターで吊ってみせる。
観客に先入観を植え付け、それをひっくり返してみせる。
意外性も見せる。

 この映画はとくべつに優れたものではなく、非常にお金のかかった娯楽大作にすぎない。
映画のできにではなく、アメリカ映画界の、時代を読む感覚に驚く。
ある重大事件をヒントにして、物語が作られるのではない。
時代の空気を察知して、事件が起きる前に物語をつくる。
これこそ想像力のたまものである。


 時代を察知するのは簡単なようだが、実は難しい。
しかしそれでも、できごとを細かく読んでいくと、その先にどんな事件がおきるかは判ってくる。
ソ連の崩壊の意味するものをきちんと読んでいれば、次の現象も想像がつく。
石油成金のイスラム諸国が国民教育をしなければ、どんな事件がおきるかも判る。
わが国では馴染みながないが、時代の先読みは可能である。

 言論の自由がない全体主義のところでは、自国政府批判は生まれずに、社会の矛盾は排外主義となって現れる。
貧富の差の激しかった戦前のわが国では、天皇批判が大きな勢力となることはなく、鬼畜米英だけが叫ばれた。
戦前の天皇家は、世界有数の金持ちだった。
それは貧富の差が激しいイスラムにあっても同様である。

 多くのイスラム諸国は、国民に近代的な教育をすると、反政府運動が高まると恐れている。
裕福な支配者にとって教育は、諸刃の剣である。
だから有りあまるお金を、国民の教育に投じない。
国民は貧しく、識字率は低いままである。
そして、国民の不満を、外国のせいにしている。
結果として、テロリストを養成している。

 イスラム諸国は政教一致という全体主義国家だから、西側諸国のような人権意識を持たない。
残酷な刑罰でも認めている。
しかし、西側諸国は自国人と同じ人権を、イスラムの人間にも認める。
イスラムの人間にも、残酷な刑罰はかさない。
とすれば、テロ対策が甘いように見えるのは、当然であろう。
テロリストは自国の法律ではなく、相手国の法律に守られている。

 捕虜となった日本人が、恐ろしかったのはアメリカではなく、日本軍によって解放されることだったという。
日本人なら理解できる心理だろう。
捕虜に名誉を認めないことは、全体主義国家の政策である。
根性や士気の高さを売り物にし、戦略をないがしろにする。
これは天皇教やイスラム教という政教一致の結果である。

 近代がやっと獲得した基本的人権が、テロリストによって脅かされている。
この映画は基本的人権を無視せよといっているのだ。

 2001年のアメリカ映画        

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