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18歳の青春真っ盛り、高校3年の女性3人を主人公にして、性をあつかったコメディである。 コメディ仕立てだからといって、不真面目ではない。 むしろ、とても真面目な映画で、わが国の女性フェミニストには、ぜひ見てほしい。 特にわが国の大学フェミニストは、あついセックスを語らないし性について潤いがない。 今のままでは、女心が離れるばかりである。
主人公たちは異性に興味がある年齢で、性的な世界にも好奇心がいっぱいでしかたない。 インケン(ディアーナ・アムフト)とビッキー(フェリシタス・ヴォル)の2人は、すでに男性経験がある。 経験済みの2人だが、いったためしがない。 オルガスムはすごく良いらしいが、どんなものか早く知りたい。 はやくオルガスムを体験したい。 レーナ(カロリーネ・ヘルフルト)はまだセックス未体験であるが、早く恋人がほしいのは言うまでもない。 インケンはティムと、何度もセックスをしているが、どうも感じない。 しかし、ティム(フレデリック・ヴェルター)は、自分のテクニックを自慢するばかりで、彼女は自信を失いかけていた。 あるとき自転車に乗っていたら、きゅうに感じてしまった。 最高に良かった。 これがオルガスムかと納得した。 自己中心的なティムとでは、イクことは絶対にない。 不誠実なティムとは別れた。 ビッキーは出会いを求めて、インターネットにはまった。 女性相手のチャットで盛り上がり、バーチャル・セックスでオルガスムを体験した。 そこで、自分はゲイだと思いこむ。 しかし、相手は知り合いのダーク(マリティン・ラインホルト)だった。 レーナは、バンドのボーカリストであるニック(アンドレアス・クリスト)と、上手くいきはじめる。 青春映画の典型で、これまでなら男性が主人公だった性の世界に、女性を置き換えた展開である。 男性の性体験は、女性への接触欲に発展すると描かれるのに対して、この映画ではオルガスム体験の獲得に向いている。 自転車で感じてしまう女性の性は、自己完結的な感じがするが、それとても生身の男性へのステップだろう。 むしろ今までの常識では、女性の性感は相手の男性によって開発される、と言いたがった。 しかし、男性の勃起・射精は内発的であり、男性の性感も自己完結的である。 同様に女性も、自己の快感は自分でつかみ取るものである。 オルガスムを体得した女性のみが、男性と対等な関係を作れるのかもしれない。 その意味では女性も自分から欲情する性なのだろう。 この映画は実に真面目に作られている。 決して肉体的な快感追求だけではない。 インケンが一生懸命にオルガスム獲得にむかっても、最後には幼なじみのフリン(マックス・リーメルト)と恋仲になる。 しかも、フリンはとてもプラトニックな男性で、あせるインケンを冷静になだめたりする。 ビッキーも相手がダークだと知ってがっかりするが、結局つきあうことにする。 レーナも紆余曲折あるが、乙女チックな恋を大切にすすめていく。 肉体のうえに精神が成り立っているのだから、セックスなしの男女関係などあり得ない。 しかも、自分で快感を手に入れようとして、異性との関係が始まる。 これがこの映画の基本である。 わが国では、いまだにセックスを日陰あつかいし、寝た子を起こすな的な教育がなされている。 しかし、セックスを頭から肯定するこの映画のほうが、はるかに健康である。 いかに充実したセックスをするか、それを大人たちは教えても良い。 男女ともに、かつては15歳くらいになれば、大人として扱われた。 大人として扱うことは、同時に性の世界にも導いた。 身の回りには、性の話が普通にころがっていた。 それが現在では、若い男女のセックスを、見て見ぬ振りをしている。 働かない女性という専業主婦の誕生は、純潔主義で女性を守る必要をうましめ、結果として女性の性の快楽を許さなくした。 近代では結婚とセックスが一体化したので、婚前や婚外のセックスは、否定的に見られる。 そして結婚は愛情に支えられるとしたので、セックスも愛情とのつながりで考えられるようになった。 この映画はもちろん愛情を肯定している。 しかし、わが国の古い常識のように、セックスを秘めたものとは見ていない。 コミックだとはいえ、ビッキーの母親の態度や、インケンの父親の様子から、セックスの肯定が伺える。 また、オルガスムをたくさん感じているビッキーの母親でも、日常には不満があるのを見て、子供たちはセックスと愛情とは必ずしも同じものではないと知る。 愛情も否定しないし、セックスも否定しない。 むしろ愛情もセックスも肯定している。 しかし、この映画は、愛情とセックスを直結していない。 愛情があれば充実したセックスができるとか、愛情のないセックスは不毛だなどとは言っていない。 ただ、現実の男女関係を素直に見て、人間を肯定している。 わが国のフェミニズムは、女性を弱者だと言って、被害者から抜け出ようとしない。 非力な女性は、工業社会までは弱者だった。 しかし、情報社会では決して弱者ではない。 また自らを弱者だと決めてしまうと、自立の拠点がなくなってしまう。 自立とは弱者から強者になることである。 強者になることは、自分を見ることであり、自分の行動を自分で律することである。 セックスでは主体になることでもある。 どんなセックスをするか、どんな快感を入手するかは、自分で考えるべき問題である。 いつまでも犯される存在としての性では、女性の自立は決してこない。 女性同士でセックスを語っても意味はない。 わが国のフェミニズムは、おおっぴらにセックスを語らないことによって、女性の行動を狭めている。 この映画は、女性フェミニストにこそ見てほしい。 少し気になったのは、おもしろいコミックでありながら、観客からは笑い声がほとんど上がらなかったことだ。 若い女性が多かったが、自分を笑うことができないのだろうか。 若い女性の現実は進んでいるのだろうが、それを表現できないもどかしさを、いつも感じる。 2001年のドイツ映画 |
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