タクミシネマ         モルホランド・ドライブ

モルホランド・ドライヴ   デヴィッド・リンチ監督

 拍子抜けさせられたエンディングだが、この監督の映画作りのうまさに引きずられ、後半まで見入ってしまう。
何でもない場面でも、観客をハラハラドキドキさせ、心をつかんで放さない。
ドラマの技術というか、映画のつぼを押さえた撮り方には、生得のセンスのようなものを感じる。
しかし、特異な主題や展開で名を売ったこの監督も、年をとったようだ。
明らかに体力の衰えと、古さを感じる。
マルホランド・ドライブ [DVD]
劇場パンフレットから

 ジルバの群舞から始まる導入といい、主人公が2人の美人であることといい、また個人的な恨みが主題となっていることいい、もはや古さは隠せない。
ジルバは好みだから良いとしよう。
しかし、主人公がそろって美人であることは、現代のアメリカ映画では少ないことだ。
かつてのような美人俳優は、映画が庶民のあこがれだった時代のものであり、現代では普通の女性が主人公になる。
ごく少数を除いて、スター女優たちが、そろって不美人なのもそのためだ。

 美人に生まれてしまった女性には不幸な時代だが、映画のなかで今や美人は売り物にはならない。
美人であることは本人のせいではないから、かわいそうといえばかわいそうだが、美人は個性の一つだと思って演技に磨きをかけることだ。
それにしても、この美人俳優は演技が上手かった。

 主人公ベティとダイアンを演じたナオミ・ワッツは、最初に登場したときの生き生きした姿の、なんとまぶしかったことか。
俳優の卵ととして、カナダはオンタリオの田舎からロス・アンジェルスにやってくる。
田舎の白人としては、ちょっとスレダーすぎるが、いかにも人の良い優等生といった感じで、はつらつとしていた。
それが最後になって、げっそりとやつれて別人のようになった。
この変わり様は、メイキャップの力もあるだろうが、やはり演技力だろう。


 副主人公であるリタとカミーラを演じたローラ・エレナ・ヘリングは、美人のうえに抜群のスタイルで、妖艶さを振りまいていた。
ややラテンの血が混じっていると感じられる容貌だが、美人女優と呼ばれるに充分である。
演技のうまさに驚嘆させられたわけではないが、平均点以上の演技だった。

 この監督のいつものやり方に従って、話は混沌としたまま進み、どう展開するのか予測がつかない。
観客は何が始まるのかと、固唾をのんでスクリーンを見つめている。
監督は観客の関心を自由に操っていく。
通常の映画では、とってつけたようなご都合主義は許されない。
しかし、この監督の場合は、何でもありである。
突然カウボーイが登場しようと、人間が消えようと、主人公が入れ替わろうと、すべて許される。
脈絡といったものは、無視されている。


 この監督の映画のストーリーを云々するのは、あまり意味がないように思うが、この映画に関してはストーリーが意味をもっている。
最初に交通事故があり、事故車中からリタことカミーラが逃げ出す。
しかも、事故の直前に、リタは拳銃を突きつけられて、殺されそうになっている。
むしろ事故が、彼女を救った形になっている。

 カミーラは、ベティことダイアンにかくまってもらう。
しかし、彼女は記憶喪失状態で、とっさにリタと名乗る。
事故で記憶喪失という設定も、いまでは古いものだ。
記憶喪失は滅多にあらわれる後遺症ではなく、物語をつくるうえで都合が良すぎる。
記憶喪失にしてしまえば、どんな展開も可能になり、フィクションとしての構成が弱くなる。

 「ロスト・ハイウェイ」で、二重人格を使ったこの監督は、この映画でも記憶喪失に二重人格を重ねている。
記憶喪失を解明するため、ベティはリタの世話をやくうちに、2人は互いにひかれあい、肉体関係をもってしまう。
物語が進行するにつれ、2人の関係はますます濃くなっていく。
2人の関係とは別に、映画製作という話が同時並行で進んでおり、主人公のオーディションにかんして、監督のアダム(ジャスティン・セロウ)に、何者からか圧力がかかる。
マフィアのようだ。

 2つの話は別々に進んでいるが、観客はリタがマフィアに絡んでいるのではないかと、想像しながら見ていく。
すると唐突に、種明かしが始まるのだ。
リタが殺されそうになったのは、リタの心変わりに嫉妬したベティによって、殺し屋を差し向けられたためだ。
交通事故は偶然であり、そのためにリタは殺されなかったという。


 ベティはその後で自殺をしており、死体をリタとベティは確認している。
ここで時間が前後するので、観客は筋を追っていけない。
最後に種明かしをされて、初めてわかる。
しかし、結末が個人的な怨恨だったとは、開いた口がふさがらなかった。

 時間を前後させ、人間を入れ替え、死んだ人間を生き返らせ、アパートの管理人ココ(アン・ミラー)が、実は映画監督の母親である。
脈絡のない、何でもありの世界を、まとめ上げる手法は上手いと言うべきか。
しかし、1946年に生まれたこの監督も、いまでは56歳である。
この監督にとっては手慣れた手法ではあっても、慣れたがゆえに圧倒的な衝撃力に欠けるのは事実である。
年をとったというべきだろう。

 女性に捨てられた女性の嫉妬という、個人的な恨みを主題にして映画を作るのは、もう古い。
捨てられた者の恨みとは、捨てられた者が弱者である社会で、成り立つことである。
女性が自立した現代では、女性が捨てられて弱者という構図はない。
平等の関係では、捨てられること自体がありえないし、関係が破綻しても、相手を恨むことは自己嫌悪に陥るだけだ。

 個人的な恨みというのは、直接的な動機が犯罪をうんだ工業社会までのもので、情報社会の表現はもはや怨恨といった主題は扱わない。
同じ怨恨を描くにしても、妄想と化した自己幻想が、極端に肥大したのが今では現実である。
描くべきは観念の暴走であり、個人の直接的な怨念ではない。
捨てられた恨みの殺人から、本人の自殺へと至るのは、陳腐としか言いようがない。
ましてや、オンタリオ出身の田舎的だささを、嘲笑されたひがみに至っては笑止である。

 おそらくフィルターを使っているのだろうが、露出があっていないのでは、とすら思わせる色彩だった。
暗く濃い色調の今までの画面と違って、明るくとんだ画面が多かったので、別人の撮影かと思ったが、「ロスト・ハイウェイ」と同じカメラだった。
意識的にやっているのだろう。
 
2001年のアメリカ映画    

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