|
|||||||||
|
|||||||||
拍子抜けさせられたエンディングだが、この監督の映画作りのうまさに引きずられ、後半まで見入ってしまう。 何でもない場面でも、観客をハラハラドキドキさせ、心をつかんで放さない。 ドラマの技術というか、映画のつぼを押さえた撮り方には、生得のセンスのようなものを感じる。 しかし、特異な主題や展開で名を売ったこの監督も、年をとったようだ。 明らかに体力の衰えと、古さを感じる。
ジルバの群舞から始まる導入といい、主人公が2人の美人であることといい、また個人的な恨みが主題となっていることいい、もはや古さは隠せない。 ジルバは好みだから良いとしよう。 しかし、主人公がそろって美人であることは、現代のアメリカ映画では少ないことだ。 かつてのような美人俳優は、映画が庶民のあこがれだった時代のものであり、現代では普通の女性が主人公になる。 ごく少数を除いて、スター女優たちが、そろって不美人なのもそのためだ。 美人であることは本人のせいではないから、かわいそうといえばかわいそうだが、美人は個性の一つだと思って演技に磨きをかけることだ。 それにしても、この美人俳優は演技が上手かった。 主人公ベティとダイアンを演じたナオミ・ワッツは、最初に登場したときの生き生きした姿の、なんとまぶしかったことか。 俳優の卵ととして、カナダはオンタリオの田舎からロス・アンジェルスにやってくる。 田舎の白人としては、ちょっとスレダーすぎるが、いかにも人の良い優等生といった感じで、はつらつとしていた。 それが最後になって、げっそりとやつれて別人のようになった。 この変わり様は、メイキャップの力もあるだろうが、やはり演技力だろう。 副主人公であるリタとカミーラを演じたローラ・エレナ・ヘリングは、美人のうえに抜群のスタイルで、妖艶さを振りまいていた。 ややラテンの血が混じっていると感じられる容貌だが、美人女優と呼ばれるに充分である。 演技のうまさに驚嘆させられたわけではないが、平均点以上の演技だった。 この監督のいつものやり方に従って、話は混沌としたまま進み、どう展開するのか予測がつかない。 観客は何が始まるのかと、固唾をのんでスクリーンを見つめている。 監督は観客の関心を自由に操っていく。 通常の映画では、とってつけたようなご都合主義は許されない。 しかし、この監督の場合は、何でもありである。 突然カウボーイが登場しようと、人間が消えようと、主人公が入れ替わろうと、すべて許される。 脈絡といったものは、無視されている。 最初に交通事故があり、事故車中からリタことカミーラが逃げ出す。 しかも、事故の直前に、リタは拳銃を突きつけられて、殺されそうになっている。 むしろ事故が、彼女を救った形になっている。 カミーラは、ベティことダイアンにかくまってもらう。 しかし、彼女は記憶喪失状態で、とっさにリタと名乗る。 事故で記憶喪失という設定も、いまでは古いものだ。 記憶喪失は滅多にあらわれる後遺症ではなく、物語をつくるうえで都合が良すぎる。 記憶喪失にしてしまえば、どんな展開も可能になり、フィクションとしての構成が弱くなる。 「ロスト・ハイウェイ」で、二重人格を使ったこの監督は、この映画でも記憶喪失に二重人格を重ねている。 記憶喪失を解明するため、ベティはリタの世話をやくうちに、2人は互いにひかれあい、肉体関係をもってしまう。 物語が進行するにつれ、2人の関係はますます濃くなっていく。 2人の関係とは別に、映画製作という話が同時並行で進んでおり、主人公のオーディションにかんして、監督のアダム(ジャスティン・セロウ)に、何者からか圧力がかかる。 マフィアのようだ。 2つの話は別々に進んでいるが、観客はリタがマフィアに絡んでいるのではないかと、想像しながら見ていく。 すると唐突に、種明かしが始まるのだ。 リタが殺されそうになったのは、リタの心変わりに嫉妬したベティによって、殺し屋を差し向けられたためだ。 交通事故は偶然であり、そのためにリタは殺されなかったという。 ここで時間が前後するので、観客は筋を追っていけない。 最後に種明かしをされて、初めてわかる。 しかし、結末が個人的な怨恨だったとは、開いた口がふさがらなかった。 時間を前後させ、人間を入れ替え、死んだ人間を生き返らせ、アパートの管理人ココ(アン・ミラー)が、実は映画監督の母親である。 脈絡のない、何でもありの世界を、まとめ上げる手法は上手いと言うべきか。 しかし、1946年に生まれたこの監督も、いまでは56歳である。 この監督にとっては手慣れた手法ではあっても、慣れたがゆえに圧倒的な衝撃力に欠けるのは事実である。 年をとったというべきだろう。 女性に捨てられた女性の嫉妬という、個人的な恨みを主題にして映画を作るのは、もう古い。 捨てられた者の恨みとは、捨てられた者が弱者である社会で、成り立つことである。 女性が自立した現代では、女性が捨てられて弱者という構図はない。 平等の関係では、捨てられること自体がありえないし、関係が破綻しても、相手を恨むことは自己嫌悪に陥るだけだ。 個人的な恨みというのは、直接的な動機が犯罪をうんだ工業社会までのもので、情報社会の表現はもはや怨恨といった主題は扱わない。 同じ怨恨を描くにしても、妄想と化した自己幻想が、極端に肥大したのが今では現実である。 描くべきは観念の暴走であり、個人の直接的な怨念ではない。 捨てられた恨みの殺人から、本人の自殺へと至るのは、陳腐としか言いようがない。 ましてや、オンタリオ出身の田舎的だささを、嘲笑されたひがみに至っては笑止である。 おそらくフィルターを使っているのだろうが、露出があっていないのでは、とすら思わせる色彩だった。 暗く濃い色調の今までの画面と違って、明るくとんだ画面が多かったので、別人の撮影かと思ったが、「ロスト・ハイウェイ」と同じカメラだった。 意識的にやっているのだろう。 2001年のアメリカ映画 |
|||||||||
<TAKUMI シネマ>のおすすめ映画 2009年−私の中のあなた、フロスト/ニクソン 2008年−ダーク ナイト、バンテージ・ポイント 2007年−告発のとき、それでもボクはやってない 2006年−家族の誕生、V フォー・ヴァンデッタ 2005年−シリアナ 2004年−アイ、 ロボット、ヴェラ・ドレイク、ミリオンダラー ベイビィ 2003年−オールド・ボーイ、16歳の合衆国 2002年−エデンより彼方に、シカゴ、しあわせな孤独、ホワイト オランダー、フォーン・ブース、 マイノリティ リポート 2001年−ゴースト ワールド、少林サッカー 2000年−アメリカン サイコ、鬼が来た!、ガールファイト、クイルズ 1999年−アメリカン ビューティ、暗い日曜日、ツインフォールズアイダホ、ファイト クラブ、 マトリックス、マルコヴィッチの穴 1998年−イフ オンリー、イースト・ウエスト、ザ トゥルーマン ショー、ハピネス 1997年−オープン ユア アイズ、グッド ウィル ハンティング、クワトロ ディアス、 チェイシング エイミー、フェイク、ヘンリー・フール、ラリー フリント 1996年−この森で、天使はバスを降りた、ジャック、バードケージ、もののけ姫 1995年以前−ゲット ショーティ、シャイン、セヴン、トントンの夏休み、ミュート ウィットネス、 リーヴィング ラスヴェガス |
|||||||||
|