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恋ごころ  ジャック・リヴェット監督

 なんとつまらない映画だったことだろう。
こんなにつまらない映画は久しぶりだった。
映画の終わりが待ち遠しくて、椅子に座っているのが長く長く感じた。
ご都合主義的な展開のうえに、何を言いたかったのか主題が不明である。
まったく、お金を返せである。
恋ごころ [DVD]
前宣伝のビラから

 カミーユ(ジャンヌ・バリバール)という舞台女優が、イタリアから3年ぶりにパリに戻ってくる。
彼女はイタリア・ミラノの劇団に所属しており、いまではそこの看板女優であり、しかも座長ウーゴ(セルジオ・カステリット)の恋人でもある。
イタリアの劇団とはいえ、彼女はイタリア語も達者であり、何の問題もないように見える。
しかし、突如として昔の恋人ピエール(ジャック・ボナフェ)を思いだし、彼を訪ねていきたくなる。

 まずここからして理解に苦しむ。
3年前につきあっていた男性、しかも自分から男性のもとを離れてイタリアに行った。
そこで新たな恋人を見つけ、現在は幸せにやっている。
その彼女がなぜ昔の彼に会わなければならないのか、その理由がまったく説明されていない。
ただ突然、何となく、それも良いとしよう。
不条理もありとしよう。
しかし、それならもっと劇的な展開になるはずで、カミーユがわざわざ別れを告げに行くのはおかしい。


 結局、カミーユとウーゴのカップルと、かつての恋人だったピエールとその恋人のソニア(マリアンヌ・バスレール)のカップルが、ぎくしゃくしながら絡んで物語は進んでいく。
ピエールは元恋人の突然の登場にとまどうが、現在の恋人ソニアとも関係を続けた上で、カミーユを大歓迎する。
ピエールはカミーユとウーゴを夕食に招待までする。
ソニアはこの関係にまったくとまどいを見せない。

 ウーゴは、17世紀のヴェネチアの劇作家ゴルドーニが、晩年にパリで書いたとされる<ヴェネチアの運命>の草稿をさがしだして、自分の劇団で初上演を目指していた。
図書館通いをしているうちに、若い女学生ドミニク(エレーヌ・ド・フージュロル)から好意をもたれる。
するとドミニクの家の書庫には、<ヴェネチアの運命>の草稿があるかもしれない、というご都合主義的な展開である。


 そのうえ、ドミニクの父違いの兄アルチュール(ブリュノ・トデスキーニ)は、ソニアに恋人を装って近づき、彼女の指輪を盗もうとしている。
アルチュールとカミーユは未知である。するとドミニクの兄は、突然にカミーユに恋をして、二人のあいだに人間関係ができてしまう。
ソニアに頼まれたカミーユは、一晩限りと言うことで、アルチュールとベッドをともにして指輪を取り戻してくる。
こんなご都合主義的な展開があるだろうか。
フランス的と言えばあまりにフランス的な、身勝手でこぢんまりとした映画である。

 フランスの戯曲といえば、モリエールなどが思い浮かぶし、コメディ・フランセーズなどが有名である。
しかし、数年前のコメディ・フランセーズは、閑古鳥が鳴いていた。
今でもやっているのだろうか。
身近な日常の話題に、男女の愛情の機微をからませた戯曲は、初期の工業社会では最先端だっただろう。
大衆という個人の登場が、フランスの戯曲を支えたのはよくわかる。
それはわが国の浅草に近いものだったろう。

 今日では、顔の見える個人を対象にした、つまり地域共同体を基盤にした物語はなりたたない。
農耕社会からはじきだされて、都市に移り住んだ人がたくさんいた。
そうした人たちが作った時代の娯楽が、小規模な舞台だったのであり、フランス戯曲だった。
情報社会化とは、土地とか物といった固形物から、思考が離れることだから、地域といった固定的なものに基づいた表現は勢いを失う。


 表現は土着性から離れて、より観念的になり、より抽象的になっていく。
表現の目指すものは、人間一般を想定し、抽象的な価値をめぐって展開される。
だから先進国の人間であれば、どこに住んでいようと、共通事項として理解可能なのである。
先進国つまり情報社会化をくぐっている人にとっては、土着性よりも抽象的な観念が身近なのである。
隣町の米屋は知らなくても、ウインドーズは誰でも知っていることを思えば、簡単に了解されるだろう。

 抽象的で観念的だから手応えがないかといえば、そんなことはない。
かつての生活は、具体的な地域性におっていたので、抽象的な理屈や観念は遠いものだった。
しかし、今日では抽象性が身近になっているので、観念的な理屈が具体性をもって、身体で感じられる。
観念や理屈に馴染みがないということは、工業社会の思考にいると言うことにすぎない。

 アメリカ映画が途上国で受け入れられているのは、夢を売っているからかもしれない。
しかし、先進国で受け入れられているのは、アメリカ映画が語る主題が身近だと感じられるからである。
男性と同じように働くアメリカ女性の孤独は、先進国の女性たちにとって、もはや人ごとではない。
また、核家族から単家族への移行も、先進国共通の現象なのである。
こうした主題を扱うから、アメリカ映画が先進国で身近なものとして見られるのである。

 表現はつねに社会と直結しており、その社会が問題視するものを主題としている。
たとえ純粋な娯楽作品であっても、社会と無関係な設定はあり得ない。
今やフランスの映画は、工業社会という過去の遺産によりかかったまま、新たな社会に目を開かない。
おそらくフランスの映画界には、わが国の抵抗勢力のような人たちがたくさんいて、無意識のうちに時代から遅れているのだろう。

2001年のフランス映画 

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