タクミシネマ      バスを待ちながら

 バスを待ちながら    ファン・カルロス・タビオ監督

 共産主義に限らず、全体主義に支配されている地域の切なさを、明るくしたたかに跳ね返して、楽しい映画に仕上がっている。
キューバでは日常生活が、何事も予定どおりに進まないのだろう。
バスだって何時に来るのか、まったく判らない。
いろいろと規則はあるのだが、規則は人々を規制する規則としてだけ存在する。
バスはダイヤ通りに来たためしはない。
何をするにも人は長蛇の列を強いられる。
劇場パンフレットから

 役に立たない規則で、がんじがらめになったキューバの、日常生活へのリフレッシュと抗議の映画である。
厳しい現実生活のなかでつくられ、体制批判をこめた明るいこの映画に、無条件で星を一つ献上する。
キューバの田舎町にあるバス停で、たまたま出会った人たちの、二日に渡る物語である。

 たまに来るバスも空席はほとんどない。
バスに乗る以外には、他に行くあてもない。
仕方なしにバス停で時間を過ごす人たち。
しかし、その日はとうとう来なかった。
バスの停留所には宿泊禁止だが、所長さんのフェルナンデス(ノエル・ガルシア)が宿泊を許可してくれる。
思い思いに身体を横たえる人たちは、期せずして全員が同じ夢を見る。
その夢が楽しい。
この夢が、この映画の骨子である。


 バス停にたった1台残っていたおんぼろバスを、修理することになる。
自分たちで修理して、それに乗って行こうというわけだ。
目が見えないはずのロランド(ホルヘ・ペルゴリア)が、的確な指示をだして、全員の心が一つになり始める。
同じ場所で同じ目的のためにいると、共感がわいてくる。
バスの修理から、バス停の建物の改修へと話は発展する。

 なかなか来ないバスにいらいらしながらも、人々はバス停で短い生活を始める。
寝る、食べる。そんなことは想定されていないバス停だから、各自の荷物を供出することになる。
少ない食べ物を、みんなで分けて食事が始まる。
エミリオ(ウラジミール・クルス)は、美しいジャクリーン(タイミ・アルバリーニョ)に一目惚れ。
彼女は結婚のためにハバナに向かうのだった。
しかしその彼女は、とうとうエミリオに心身共に開いてしまう。

 バス停の改修中に、ジャクリーンの婚約者が迎えに来るが、彼女はエミリオとのあいだで悩む。
とりあえず、建物の改修が終わるまで、彼女はバス停に残ることにする。
婚約者は後日迎えに来ることを約して、帰っていく。
自発的に、みんなで力を合わせた作業は、明るく楽しい。
楽しいバス停では、錆びついていた人間関係も潤滑になる。
倦怠期だった夫婦にも、甘い夜が来るようになった。

 最初は我がちにバスの空席を争った人たちが、バス停での共同生活に愛着がわき、バスに乗ろうとしなくなる。
空席があっても、お互いに譲りあう始末。
突如倒れたアベリーノ(サトゥルニオ・ガルシア)が、もっていた大金をみんなに残すといって、こと切れてしまう。
仲間の死に悲嘆にくれる人たち、厳かに葬式をする。


 実はこれは全員がそろってみた夢だった。
朝になってみれば、現実はまったく変わらなく、やはりバスは来ない。
しかし、夢を見た人たちは、どこか違っている。
ジャクリーンの婚約者が迎えに来る。
夢のなかほどではないが、いくらかエミリオに心を引かれながら去っていく。
サンティアゴへ行くエミリオたちは、トラックの荷台に揺られて、バス停を離れていく。

 少ない物資、厳しい管理、規則ずくめの生活。
そうしたキューバの現実に、映画監督は批判の矢を放っている。
しかしラテン・アメリカでは、表だった体制批判はできない。
官憲の目はどこにでも光っている。
そこでお話は、いつも寓話のようになる。
厳しい日々を生きている人たちには、この映画の訴えるものは充分にわかる。
そして、体制を笑いのめす。

 南国特有の色彩と、貧しくも明るい人たち。
途上国にあっては、映画監督は極め付きのインテリであることが、物語の端々から伝わってくる。
バス停にまで図書室を作ろうとする。
古い本の中からでてくるのは、「嘔吐」だったりといった具合である。
60歳近い監督は、同じ時期の先進国からの知的な洗礼を受けている。
若い監督なら、違う本がだされるであろう。

 この監督の感覚は、情報社会を走る最先端のものではない。
むしろ工業社会のものだ。
情報社会でも工業社会でも、知的な訓練という意味では、知識人の生き方は世界的に同じである。
知的世界にも流行はあるから、もはやサルトルは流行らない。
しかし、基礎的な書籍は、世界に共通である。
近代的な知の世界、それは西洋文明が基礎になっている。
近代だから、人権が歌われるのだし、体制批判が成り立つのである。


 前近代には、国民国家がなかったのだから、反体制運動はなかった。
前近代にあったのは、支配者同士の支配権争いであって、合意によって形成された政府ではない。
統治とは被支配者たちの合意の上に成り立つと認識されるから、反体制運動が成り立つのだ。
そういった意味では、江戸の儀作者的なセンスをもつこの監督が立つ位置は、まごうことなく近代人としてのそれである。

 キューバが現体制を維持できるのは、カストロが生きている間であろう。
アメリカはそれまで何もせずに、ただ時間の経過を待っているにちがいない。
共産主義という偉大な実験も、世界各地で失敗の報告があいつぐ。
人々の幸せを願った共産主義も、結局は全体主義の一種だった。
それは無理もない。
物質的にまた経済的に恵まれないままで、人間の幸せだけを実現することはできないのだ。

 人間を善なるものと見た共産主義が、粛正と貧困という過酷な支配を実現した。
そして、人間を悪なるものと見た資本主義が、豊かな社会を作った。
何という皮肉であろうか。
そうはいっても、この映画のように、人間を信じる以外にない。
どんな社会も人間が作っているのだし、一人の人間のために社会はあるのだ。
この映画は、人間は捨てたものではないと思わせてくれる。

2000年のキューバ・スペイン・フランス・メキシコ映画

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