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会社つとめをしていた桜井杏(米倉涼子)が、アメリカ行きのために退社する。 貯金した5百万円を、銀行から引き出してきた。 ところがその翌日、泥棒に入られて全財産を盗まれる。 おまけに恋人には別の女がいることが判明し、これも破局となる。 住むところなし、金なし、男なしの状態になる。 行くところもなく放浪を始めて、ダンボールハウスに住むようになる。
ふつうの会社員がこうした状態になっても、いきなりダンボールハウスに住むようになるとは思えない。 このあたりの説得力は弱いが、そこには目をつむる。 ふつうの女性が、ダンボールハウスに住むという着眼はとても面白く、期待して見にいった。 細かいところには、ところどころ見るべきものもあり、言いたいことは理解できるのだが、残念ながら失敗作だろう。 会社を辞めるときに、こんな勤めは社蓄だ、と同僚の女性に宣言する。 わずかな金のために働くのには、ゆたかな未来がないという。 管理された日常から逃れるのが、アメリカ行きだというのは通俗にすぎるとしても、それも認めよう。 理解できないのは、ダンボールハウスに住むようになった彼女が、ダンボールハウスにこそ豊かな人間性が満ちている、と発言することだ。 インローとアウトローという対置かもしれないが、ダンボールハウスの住人たちも、会社員がもつのと同質の疎外を受けているはずである。 ただ会社に通わなくても良いというだけでは、この社会からの規制からは自由になれない。 むしろダンボールハウスの住人の方が、厳しい拘束を受けているかもしれない。 現代社会で働くことが、個人の尊厳を支えるといった手応えを、もてない状況にあるのは事実だろう。 生活費を稼ぐためだけに、日々を会社に通っている人がほとんどだろう。 仕事に生き甲斐などないかもしれない。 しかし、生きると言うことは、所詮そういうことではないか。 農耕社会の収穫の喜びとか、職人たちの創る喜びとったものが、賛美されるが、その中に入って見れば、やはり良いことばかりではない。 前近代的な労働は肉体を使うものだったから、ストレスはなかったように感じるかもしれないが、そんなことはない。 農民であれば自然との闘いであるし、手を抜けばたちまち作物は枯れてしまう。 自然の厳しさに縛られて、土を耕して一生を終わるが、農民の人生だった。 職人であれば、仲間同士の陰湿ないじめをかいくぐらなければならない。 働くということは、どんな時代にあっても厳しい。 しかも、彼らは身分制の拘束下におかれていたのだ。 働くことから落ちることが、ダンボールハウスに住むことだとは、どうしても思えない。 ダンボールハウスにはそれなりのルールがあり、それに従わなければ排除されるだろうし、だいたい住むことすらできない。 ダンボールハウスの住人だけが、善人であるという前提も、きわめて妙なものである。 会社勤めの世界対ダンボールハウスの住人という構図を、非人間対人間という対比でとらえるのは、まったく幼稚である。 この二項対立は、裏がえった同質のものだ。 ダンボールハウスに住む人たちを普通の人ととらえ、彼らの悩みを会社員と同質に描いてこそ、同じ高さの視線だといえる。 この映画の視線は、会社員を社蓄として侮蔑しながら、ダンボールハウスの住人をも下に見ている。 会社勤めの世界対ダンボールハウスの住人という二項対立の構図のなかに、もうひとつダンボールハウスの住人の内部を見つめる目をもってほしい。 この複眼的な視線こそが、人間存在の深層にたどり着ける道である。 現状からの脱出を夢見るのは、「青い鳥」を探すのと同じである。 ダンボールハウスの住人の位置で、哲学する必要がある。 この映画には嘘っぽさが漂っている。 彼女は家庭教師のバイトをするが、ダンボールハウスの住人がふつうの社会とのあいだを、往復できるとは思えない。 ダンボールハウスに住むことは、風呂に入らないことであり、頭を洗わないことである。 爪のなかが黒くなり、すさまじい体臭を身につけることである。 ダンボールハウス的日常の延長で、家庭教師にいったら、両親から拒絶される。 つまり、ダンボールハウスに住むと決めたときに、稼ぐ世界とは決別したはずなのだ。 彼女は結局ダンボールハウスからでていくのだが、いったいどこへ行くのだろうか。 会社勤めを否定しているのだから、もう会社員には戻れない。 しかし、この映画の設定では、二項対立の構造から、なお移動しようとするとき、会社勤めへ戻る以外には行く道がない。 だから映画が終われないのである。 ダンボールに住みながら、彼女の様子が少しも汚れていかないのは、とても不思議だった。 汚れと臭いのために、人は彼女を避けるはずである。 「彼女を見ればわかること」のような低予算映画でも、ホームレスのナンシーはきちんと汚していた。 主題を伝えるために、現実をデフォルメするのは許されるが、現実を無視するのは表現をして主題へ到達させない。 ダンボールハウスという着想はとてもいいのだが、観念が幼稚で現実に届いていない。 この監督は、実際にダンボールハウスに住んでみればよかった、と思う。 観念が透徹していないときは、現実で確認するとなお良く見えるものだ。 思考が幼稚というか、現実との関係がほとんどないところでの、思考は何の成果もうみださない。 現実を忌避していながら、映画製作者たちの思考は「ゴースト・ワールド」のような絶対的な孤独に追い込まれていない。 2001年の日本映画 |
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