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良質な娯楽映画とは、この映画のためにあるような言葉だ。 山あり谷ありの、良くできたストーリー展開。 笑いがあり、悲しいシーンもあり、音楽も良い。 もちろん主題もきちんとしている。 娯楽映画の見本のような映画である。 「The knight's tale」騎士の話という原題の、この映画に迷わず星一つを献上する。 舞台は14世紀、中世のイギリス。 屋根葺き職人ジョン(クリストファー・カジノブ)の子供として生まれたウィリアム(ヒース・レジャー)は、彼が7歳の時に見習い奉公にだされる。 これは当時の習慣としては、ごく当たり前のことだったに違いない。 学校がなかった時代、小さな子供でも、働くことが当然だったからである。
そして奉公先が、貴族の従者だった。 それが彼の後年を決定づけた。 数年後その貴族は、騎乗槍試合を求めて、大陸を武者修行する。 なんと試合の直前に、貴族が突然に死んでしまう。 この騎乗槍試合は、貴族しか出場できない。 しかし、貴族の練習相手をしていたウィリアムは、その貴族の身代わりになって出場してしまう。 馬のうえで大きな槍をかまえ、突進して突くだけの競技だが、意外に奥が深い。 いかにも肉体の時代にふさわしい武術である。 ウィリアムは槍の試合に魅せられる。 彼は次の試合に備えて、稽古に励みはじめる。 この稽古のシーンも、奇想天外な仕掛けがあり、なかなかに愉快で笑いをさそう。 そこへチョーサーが登場し、貴族証明書を書いてくれる。 この時代の貴族たちは、文字が読めないのは普通だったから、代書屋が商売になった。 しかも後年チョーサーは、一流の詩人になるほどだから、巧みな文章使いだった。 群雄割拠の中世貴族の社会を想像すると、この映画は楽しめる。 ウィリアムは、仲間のローランド(マーク・アディ)とワット(アラン・テュディック)、それにチョーサー(ポール・ベタニー)の4人で、各地の槍の試合を転戦する。 彼は試合に強く、賞金稼ぎで生活ができた。 貴族の女性ジョスリン(シャニン・ソサモン)と恋仲になったり、アダマー伯爵(ルーファス・シーウェル)というライバルが現れたり、イギリスのエドワード王子が試合の相手になったりと、観客の興味をつなぐ展開を踏んでいく。 多くのエピソードが、後半へと伏線になっており、充分に納得ができる。 身分を偽って、貴族の試合に出場する。 それが中世の身分社会への批判であろうし、身分社会批判がこの映画の主題である。 しかし、娯楽映画は主題をひけらかさない。 難しい主題はさらっとながして、わかる人にはわからせる。 主題など無関心でも、映画を面白く見てくれればいい。 実に上手いやり方である。鍛冶屋に女性を登場させたり、女性の台頭にも配慮がある。 その鍛冶屋ケイト(ローラ・フレイザー)が、新式の鎧をうちだす。 これはいわば技術革新であろう。 試合のシーンなど、大勢の人を登場させて、たくさんお金がかかっている。 ロケ・シーンも豊かで、チェコ共和国で撮影されたらしい。 軽快なテンポ、次々に起こる障害、それを乗り越える仕掛けなどなど、見るものを飽きさせない。 よく練られた脚本である。 自ら脚本もてがけた監督は、これが第二作目というが、大した力量である。 この映画では、音楽にも触れないわけにはいかない。 オープニングとエンディングが、クィーンのチャンピョンである。もともと良い歌なのだが、この映画の主題や内容と良くあっている。 ロックは抵抗・反逆の音楽といわれた。 1960年代には、綺羅星のように輩出したロック・スターたち、クィーンもその一つだ。 しかも、生きている人間がチャンピョンだという歌詞は、ウィリアムの生き方と良くあっており、時代へのメッセージとしても肯首できる。 わが国では、身分秩序への反逆は、それほど大きな話題にはならない。 しかし、近代への過程で多大な血を流しているヨーロッパでは、いまだに大きな主題である。 貴族が残るヨーロッパだが、自由・平等の誕生したヨーロッパだからこそ、いまでも思想的な確認が続くのである。 それが情報社会へと転換する今、新たな身分支配が起きようとしている。 それへの批判としても、この映画は見ることができる。 農耕社会から工業社会へ、工業社会から情報社会へ。 産業の質的な転換は、新たな人間像を生みだし、人間関係をも転換させる。 時代劇でありながら、勧善懲悪の定型的な時代劇ではない。 きわめて現代的な問題意識に支えられて、この映画は14世紀という時代を使う。 「クイルズ」と同様に、ここがいい。 エドワード王子に対しては、騎士道に外れるような不戦敗を選ぶ騎士たち。 プライドをもったはずの騎士たちが、じつは利益で動く卑劣漢である。 平民のウィリアムこそ、もっともプライドを大切にした。 映画はやはり主題である。 きちんとした主題があってこそ、物語をうまく運べるし、内容を深めることができる。 それに同時代への強烈な時代意識が不可欠である。 それは娯楽映画であっても、同様である。この映画には、その両方がそなわっている。 もちろん映画だからご都合主義のところもある。 女鍛冶屋のケイトが美人すぎたり、負傷したウィリアムが最後には勝ってしまったり、エドワード王子が都合良く登場したり、不自然といえば不自然である。 しかし、それは許される不自然さである。 この映画には、俳優のキャスティングにも言及する必要がある。 主演のヒース・レジャーは、大した出演歴のない若手だが、なかなかいい雰囲気である。 今後の出世が予測される。 ジョスリンを演じたシャニン・ソサモンも、本作がデビューである。 チョーサーを演じたポール・ベタニーは、いかにもイギリス人らしい風体が、この役にはまっていた。 いまやコンピュータに限らず、映画の世界も英語圏の人たちに席巻されている。 ヨーロッパ大陸は見る影もない。 この原因は考えるべきことだ。 わが国の映画の決定的弱点は、主題の貧弱さである。 身分秩序に反逆する、こうした主題は、いくらでも焼き替えが可能である。 わが国でも、こうした映画を下敷きにして、リメイクしてみればいい。 江戸時代あたりに、ハンサムな若者をキャスティングして、反逆映画を作ればいいのだ。 「サムライ・フィクション」が可能なのだから、わが国の映画だって捨てたものではないと思う。 蛇足ながら、これだけ絶賛した映画なのに、このサイトでは二つ星をつけない。 その理由は、この映画が時代を切り開くような主張がないからである。 娯楽作品は時代と格闘しなくても良い。 それが大衆文学でもある。 しかし純文学は違う。 映画が、二つ星を獲得するためには、純文学でもなければならない、と考える。 純粋な表現は、大衆を相手にしたものでありながら、新たな時代を切り取ってみせる。 突出した主張が、一流たらしめる。 だから二つ星をつけるものは、必ずしも大ヒットしたものとは限らない。 先鋭的な感性にしか、共感を得なくても仕方ないのだ。 この作品は、良くできた映画ではあっても、純粋な表現ではない。 純粋な表現とは難しいものだ。 2001年のアメリカ映画 |
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