タクミシネマ        サムライ・フィクション

サムライ  フィクション         中野裕之監督

 やっと現代の日本らしい映画の登場である。
武士道以来の日本的な美意識が充分に発揮され、しかも現代日本のハイテクを反映した映像美と音楽。
古い日本的なものと現代的な要素が上手くからんだ映画で、現代日本の映像技術の高い水準を、良く表しているサムライ映画である。  
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 短気で有名な犬飼平四郎(吹越満)が、江戸の研修から田舎に帰って、自宅で老父相手に毎日を過ごしていた。
その老父は、藩の筆頭家老をつとめており、彼も老父の跡を継いで家老になることが予定されていた。
そんなとき、風祭蘭之助(布袋実泰)なる男がその優れた剣術の腕前によって、異例の抜擢を受けて剣術指南役として殿様に召し抱えられた。
そして、将軍から拝領した家宝の刀を預かる。
しかしどうしたことか、彼は同僚を殺したうえ宝刀を持ち去る。

 武術指南役として雇用されながら、なぜ彼はああも虚無的なのか、風祭の立場や姿勢がいまいち説明不足で、判らない。
殿様に雇用されることは、仕官の道を選んだことなのだから、安定した職場を保証されると同時に、そのマイナス面もあることは当然である。
このあたりの説明がないので、優れた腕を持ちながら、自分はなぜ世に受け入れられないのかという、彼の自己疑問を不確かなものにしている。
もっともこの話の限りでは、無前提的前提とされているから、この矛盾を説明することは出来ないかも知れない。

 彼は、藩の上級管理職として雇用されたわけではないが、優れた腕前により専門職として異例の登庸を受けたのであり、その特技によって充分に評価されている。
にもかかわらず、彼は失踪し、世に受け入れられないとぼやく。
ここは無前提的すぎて、彼の行動を理解できない。
観客の日本的な共感意識に期待しすぎである。
制作者は人物の性格設定に無自覚的である。
これはほかの登場人物にも言えることであり、日本の封建社会的な約束事を、観客全員が共有していると、無前提的に前提されていることは、この映画を非説明的にしている。
非説明的なこうした傾向は、描写力に欠ける日本の表現者に共通したものである。
彼らは感性が大切だといって説明を避けるが、説明抜きの感性は、共通の経験を持たない者には了解不能である。

 宝刀を持ち去った風祭を、藩命を受けた者たちが追うが、それとは別に犬飼は一人義憤にかられて、独断で取り返しに出発する。
それに友人二人も同行。
この三人の絡みが軽妙で面白い。
しかし、圧倒的に強い風祭のまえに、三人は簡単に倒され、犬飼は重傷、黒沢忠介(大沢健)は殺されてしまう。
そこへ溝口半兵衛(風間杜夫)が助けに入り、犬飼は溝口の家に運ばれて看病される。
溝口は剣の達人でありながら、浪人の身であり、一人娘の小春(緒川たまき)と隠棲している。
彼は半ば剣を捨てたという設定である。
犬飼は溝口の家で、回復期を過ごすうちに、小春と良い仲になる。
その雰囲気のコミカルな表現が上手い。
若い犬飼と小春の、不思議な好感が画面を通じて良く伝わってくる。

 映画の後半は、風祭と溝口の立ち会いを射程に展開する。
立ち会いを避ける溝口に、受けざるを得ない方向にもっていく件は、古い時代劇を見ているようで、陳腐さは覆いがたい。
小春を誘拐して、娘を取り返したければ、立ち会えと言うのは、まるでやくざ映画である。
最後にはもちろん正義派の溝口が勝利し、犬飼と小春は結ばれて目出度し目出度しとなる。
まったく同時代的な物語性がなく、現代を生きる表現者の時代への切り込みがない。

 この映画は、映像的な美意識と音楽が売り物である。
場面場面の美しさは、最近の映画としては出色で、大いに楽しめた。
しかし、日本人得意の心象風景の描写が、くり返されるのは展開をのろくし、物語を作りこむ気負いに欠けると思う。
優れた美意識は認めるが、それが物語を作っているかというと、残念ながら否と言わざるを得ない。

 黒沢などの作品もよく見ていると思われて、最近の日本映画としたら高い評価をしたい。
しかし、優れた部分が優れた全体を作らない見本のように見えた。
今日の日本では、音楽にしても、映像にしても、デザインにしても、個々の分野では世界でも最先端である。
しかしそれらを総合した映画となると、がっくりと力が落ちてしまう。
優れた部分の集合が、優れた全体を必ずしも生むわけではなく、集めるための意図や主張が不可欠で、それが全体を優れたものにする。

 全体は部分の集合だから、部分の向上ももちろん大切である。
しかし、全体を貫く主張こそが物語性なのであって、物語性を作る能力こそ想像力なのであろう。
この映画には、映画で語る主題がない。
現代日本の思想状況に立脚しているがゆえに、現代日本の構造をまた忠実に反映していたのは当然だった。
日本はもう少し異文化と接触しないと、語るべき主題を自覚できないのかも知れない。
人間存在そのものに頼りすぎている。

 通常の映画と異なり、配役がロッカーたち中心だったので、実に楽しいメンバーだった。
音へののりも良かったし、何よりも驚いたのは、洋物ロッカーでありながら、サムライ姿や着物がよく似合っていたことである。
日本人の体型や骨格は、最近になって変わったとはいえ、長い年月によって作られた着物は、誰でもよく似合うのであろう。
着物を着たロッカーというのも、また奇妙なものである。
着物に比べると、ロックという外来の新文化は、簡単には定着しないと痛感させられた。

 日本映画としては高く評価するものの、映像的美意識と音楽ののりに頼った映画であり、映画の最も大切な物語性という意味では何もないといわざるを得ない。
この映画を優れていると思うがゆえに、部分でのみ突出した現代日本の状況を、反射的に思い出してしまうのも、また事実である。
そのため軽いシーンの連続と感じられて、見終わった後の充実感に乏しく、良質な映画を見たという感動が薄い。

 剣術のシーンや忍者の群舞のシーンは、良く訓練されていることが伝わってきて、気持ちよかった。
群舞のシーンは、おそらく洋舞の人たちであろう。
それはよいし、特に忍者たちの群舞は、躍動的で美しくかった。
しかし、サムライたちの姿は腰高で、武士の姿勢ではない。
現代映画としては仕方ないが、お歯黒の無視と共に、時代考証をきちんとやって欲しかった。
たぶん映画の制作者たちは、江戸時代の人間の腰の位置の違いには無自覚であろう。
近代は、日本人の立ち振る舞いはもちろん、歩く姿まで変えてしまったことに驚く。

 時代劇を選んだときに、日本的な美意識に寄りかかることが前提となってしまうから、サムライ映画には新たなものを生めない限界がある。
既成の美意識に頼れない現代物は、やはり最も難しいジャンルであることも、この映画の反面教師として確認させられた。
時代物は作るのが楽である。

 智恵遅れの男・吾助を演じた神戸浩は、うまい演技だった。
またお勝を演じた、夏木マリの見得を切る姿は、その裏の心理を想像させて少しも不自然ではなく、心象風景の無駄とは反対に、かっこよく決まっていた。

1998年の日本映画


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