タクミシネマ          ガンシャイ

ガンシャイ     エリック・ブレイクニー監督

 アメリカの麻薬取締り警察が、おとり捜査官のチャーリー(リーアム・ニーソン)をギャングの組織に潜入させた。
一度は無事に勤めをはたしてきたが、仲間の死から、彼は臆病風に取り付かれてしまった。
しかし彼の仕事は、おとり捜査官である。
臆病風をおして、しかたなしに再度の潜入を試みる。


 意気地のなくなったギャングを描いた「アナライズ ミー」とか、この映画のように役割を果たすべき人格が、それ風になれなくなる。
そんな映画が何本か公開された。
この映画も、設定としてはおもしろいはずである。
しかも、もう一ひねりしてある。

 ギャングの若頭を演じたフルビオ(オリバー・プラット)が実は小心者で、気の弱さを隠すために、残酷な振る舞いをするというのもおもしろい。
彼はギャングの親分の娘婿で、ドジで無口な彼は奥さんにも頭が上がらない。
彼の望みは、田舎でトマト栽培をしながらのんびり暮らすことだった。

 <○○らしくある>ことが、前近代ではあるべき姿であり、その立場を演じることが要求された。
裸の個人の人格ではなく、立場としての人間が評価の対象だった。
工業社会になっても、そうした風潮は生き残っている。
だから、頼りない社長とか非力なヤクザというのは、さいしょから語彙矛盾である。
○○らしい立派な人というのは、まだまだ一目置かれる存在である。
こうした映画の登場は、そうした立場での発想が、やっと崩れてきたことを意味するのだろう。


 疑い深いフルビオの心をがっちりとつかみ、臆病風に吹かれながらもチャーリーは仕事をする。
仕事の時は、不思議と臆病風がでてこない。
恐怖と違って臆病というのは、外見では何もかわりがない。
神経性の下痢が頻発するというのも、切迫感に乏しい。
神経を静めるために、薬に頼るのも当然理解できるが、薬を飲むだけでは臆病さは伝わらない。
チャーリーは怖い怖いといいながら、その恐さが伝わってこない。
臆病風の演出が難しかった。

 チャーリーは精神科医に相談に行き、グループセラピーを受ける。
そのグループが、最後にどんでん返しをおこすのだが、そのあたりのつながりがちょっと不自然だった。
また、浣腸を受けに病院へいき、看護婦と仲良くなる。
看護婦のジュディ(サンドラ・ブロック)は、なぜかチャーリーに好感をもち、たちまち二人は恋仲になる。
ここらあたりも、そんなに簡単にいくかな、という感じがする。
なぜ彼女がチャーリーに好感を持つかが伝わってこない。

 どんなに奇想天外でも、自然と納得させられてしまう展開もあれば、ちょっとのことでも不自然と感じさせるのもある。
話の進め方のディテールともいうべき部分は、どこがどうといったものではなく、監督の文体的な力量といったものなのだろう。
フルビオの性格設定、コロンビア・ヤクザの人間描写など、この映画はおもしろい要素をたくさんもっている。
それをうまく生かし切れておらず、低調なままに終わってしまった。


 この映画は、サンドラ・ブロックがプロデュースしている。
女性のプロデュースになる映画も作られはじめている。原題は「Gun shy」

2000年のアメリカ映画

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