|
|||||||||
メキシコからアメリカに密輸される麻薬の流れ、それをトラフィックと呼ぶらしい。 すでに大きな流れとなっているからだろう。 摘発されるのはほんの少しで、密輸関係者は当局の捜査を無駄な抵抗だと感じている。 それでも、麻薬の蔓延に心を痛める人はいる。 そして、必死で摘発する捜査官もいる。 この映画は麻薬摘発の話に、麻薬捜査の最高司令官ロバート(マイケル・ダグラス)の娘キャロライン(エリカ・クリステンセン)が、麻薬に溺れていくのを絡めている。 メキシコの砂漠のなかで、麻薬をつんだトラックがハビエル(ベニチオ・デル・トロ)とマノーロ(ヤコブ・バーガス)の2人の刑事によって摘発されるところから、この映画は始まる。 警察へ連行するのかと思いきや、メキシコのサラサール将軍(トーマス・ミリアン)が、多くの兵士とともに登場する。
後は任せろとばかりに、彼は犯人と押収した麻薬まで持ち去ってしまう。 もちろん、この将軍が胡散臭いことはすぐに判る。 メキシコ側は官憲も麻薬の密輸に汚染されている、というのは簡単に了解できるが、映画としては誰が悪者だか判らないようにして欲しかった。 謎解き映画ではないが、これでは平板に過ぎる。 メキシコはブラジルとならんで、近代化に成功すると見られたときもあった。 しかし、近代化へと離陸したのは、東アジアと東南アジアだけで、メキシコもブラジルも近代化できなかった。 近代化しないままで、為政者に近代的な兵器や大金が与えられると、その顛末は決まっている。 為政者のあいだで贈収賄がとびかい、汚職によって私腹を肥やす。 どこの国でも、同じパターンへとはまる。 それには当然の理由がある。 だから、お殿様のお金はすべてお殿様のものであり、公金と私金の区別もない。 前近代では地位にまつわるものと、個人にまつわるものが分離していない。 そして、賄賂は社会の潤滑油であって、悪いものとはされていない。 世界全体が前近代だった時代には、贈収賄による利潤もそれほど大きくはなかった。 潤滑油が、本体を喰うまでには至らなかった。 しかし、先進諸国と国境を接すると、事情はまったく違う。 先進国での利益が、そのまま前近代の国へと流れる。 為替の違いもあって、とてつもない利益を生むのだ。 前近代的な資質のままでは、国家さえ特定の人たちに独占されかねない。 1970年頃の話、メキシコの大統領をやって蓄財できないのは、無能だといわれたのである。 そして、下級官僚や警察官の給料が低いことも手伝って、役人たちは公然と賄賂を取った。 たとえば、駐車禁止の反則切符を切られたら、その場で警官に五ペソ支払う。 それで終わりである。 この映画でも、メキシコの警官であるハビエルの給料が、318ドルだという話がでてくる。 物価が安いので生活はできるだろうが、決して裕福ではない。 隣の国アメリカの10分の1で、工業製品など買えないに決まっている。 そこで多くの警察官たちは、庶民からおこぼれをいただくことになる。 先進国ではいかなる賄賂も悪だと見るが、前近代的な国では賄賂は悪ではない。 賄賂を取って融通を利かせる役人は、堅物の役人より有能なのが通例である。 こうした構造は、世界中で見ることができる。 貧しくても正義感にもえる人物はいる。 この映画では、ハビエルがそうだった。 彼は貧困が子供の希望をうばい、子供を転落させると心を痛め、子供の生活環境を変えたいと念願している。 最初こそサラサール将軍にとりこまれるが、やがて汚職の構造を知って、彼はアメリカ側に協力する。 メキシコとアメリカの国境で、摘発される麻薬の密輸は、40%だという。 映画だから最後には、麻薬組織はつぶされるが、暗澹たる感慨に襲われる。 需要がある限り、麻薬は根絶やしにできない。 16才のキャロラインは、学業成績も優秀、体育にも優れている。 その彼女が麻薬へと走っていく。 いかにアメリカの麻薬汚染が、凄まじいかを描いたつもりだろうが、彼女の麻薬への動機付けをもう少し丁寧に描いて欲しかった。 麻薬は、生産者のほうの問題ではなく、消費者のほうの問題であり、経済の歪みがもたらしたものだ、という見解もかたられるが、どうにも力が弱い。 麻薬それ自体は、個人が自分で使うものであり、他人への危害は与えない。 だから、自己決定権のなかに含まれてしまい、売春などと同様に犯罪だといいにくい。 オランダではマリファナは合法化された。南米のインディオなどのように、コカを合法的に常用している人たちもいる。 煙草は弱けれど、明らかに麻薬と同質のものである。 麻薬に免疫のない先進国では、麻薬を使い慣れていないから、身体に重大な害を与えるまで麻薬に溺れてしまう。 とくに若い人は、溺れやすい。 麻薬を主題にした映画は単調になりやすい。 多くの映画は、麻薬は悪としてその撲滅を描き、麻薬からの立ち直りに言及する。 しかし、麻薬をやっている人間が悪いわけではないから、「バスケットボール・ダイアリー」などが典型だが、中毒からの立ち直りを肯定的に描く。 悪い麻薬と正しい更正がパターン化しやすく、このあたりが滑らかな物語にしにくい。 この映画でも、キャサリンが麻薬から立ち直るが、なぜ立ち直れたかの説得力は弱い。 その手法は、観客に大きな話の始まりを予測させる。 三つの話が同時進行し、膨大な人数の人が登場する。 大きな物語をまとめる監督の力量は認めるが、麻薬犯罪捜査と麻薬に溺れる家族の二つに分裂し、ややまとまりを欠くものになっていたのも事実である。 セピア調の画面で表現されるメキシコと、普通のカラーのアメリカ側が、交互に画面に登場する。 貧困をあらわすセピアかもしれないが、普通のカラーでも充分に伝わる。 むしろ、アメリカとメキシコの表現を変えることは、何やらその間に表現者の意図の違いを感じてしまう。 一種の差別になりかねない。 セピア調のメキシコ側は、ハンドカメラで撮影されていたが、画面がぶれて見にくかった。 最後に、ロバートが記者の前で、麻薬撲滅の演説をしようとする。 しかし、きれいごとになると感じた彼は、演説の途中でホワイトハウスを抜けだし、子供のもとへと向かう。 そして、麻薬更正施設にいるキャサリンの話を聞くところで映画は終わる。 公務放棄などあり得ないかもしれないが、これは国家の重大事より、子供への愛情のほうが大切だというメッセージだろう。 このエンディングは理解するが、すべて個が優先するという大変な時代になっていることも、このエンディングはあらわしている。 こちらへ振るのは簡単だが、そう簡単に結論づけて良いのだろうか。 2000年アメリカ映画 |
|||||||||
<TAKUMI シネマ>のおすすめ映画 2009年−私の中のあなた、フロスト/ニクソン 2008年−ダーク ナイト、バンテージ・ポイント 2007年−告発のとき、それでもボクはやってない 2006年−家族の誕生、V フォー・ヴァンデッタ 2005年−シリアナ 2004年−アイ、 ロボット、ヴェラ・ドレイク、ミリオンダラー ベイビィ 2003年−オールド・ボーイ、16歳の合衆国 2002年−エデンより彼方に、シカゴ、しあわせな孤独、ホワイト オランダー、フォーン・ブース、 マイノリティ リポート 2001年−ゴースト ワールド、少林サッカー 2000年−アメリカン サイコ、鬼が来た!、ガールファイト、クイルズ 1999年−アメリカン ビューティ、暗い日曜日、ツインフォールズアイダホ、ファイト クラブ、 マトリックス、マルコヴィッチの穴 1998年−イフ オンリー、イースト・ウエスト、ザ トゥルーマン ショー、ハピネス 1997年−オープン ユア アイズ、グッド ウィル ハンティング、クワトロ ディアス、 チェイシング エイミー、フェイク、ヘンリー・フール、ラリー フリント 1996年−この森で、天使はバスを降りた、ジャック、バードケージ、もののけ姫 1995年以前−ゲット ショーティ、シャイン、セヴン、トントンの夏休み、ミュート ウィットネス、 リーヴィング ラスヴェガス |
|||||||||
|