タクミシネマ           グラディエーター

グラディエーター     リドリー・スコット監督

 今年のアカデミー賞でオスカーをとったので、再上映された映画である。
コスチューム・プレイはどうも好きになれず、見ないことがおおい。
この作品も見逃していた。
結果からいうと、オスカーの対象になるだろうとは思うが、去年の「アメリカン・ビューティ」のような感銘は受けなかった。
確かに大規模ではあるが、CGIに頼りすぎている。

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劇場パンフレットから
 時代は紀元180年、場所はローマ。
蛮族ゲルマンを征服し、ローマは世界の四分の一を支配下においた。
史実はゲルマンとは講和したが、映画では勝利することになった。
主人公になるマキシマスも、架空の人物である。
勝利した戦場で、司令官のマキシマス(ラッセル・クロウ)は、皇帝から次期皇帝に就任するよう依嘱を受ける。

 おさまらないのは息子のコモドゥスである。
自分が皇帝になるものと決めている彼は、皇帝である父を殺してしまう。
そして、マキシマスの妻や子供を殺し、彼も殺したつもりだった。
コモドゥスは皇帝になる。
しかし、マキシマスは奴隷に売られながらも生きており、最後はコモドゥスに復讐するはなしである。
ちなみにグラディエーターとは、剣闘士という意味である。


 偉大な皇帝だったマルクス・アウェリウス(リチャード・ハリス)、その息子のコモドゥス。
父の前皇帝は偉大だったかもしれないが、息子のコモドゥスを愛さなかった。
この映画の主題は、愛されなかった子供の悲哀である。
それをローマ時代に見ようというのが、この映画の現代的な主張である。

 この時代を、今日のような親子関係で考えることは間違いだろう。
結婚自体が愛情によるのではなく、家や支配のためだった。
だから、子供だって小さな時に人質にだされたり、政略結婚の駒にされた。
それでも子供たちは充分に成長し、各地で次の支配者になった。
彼等支配者にあっては、子供は乳母が育てるものだった。
だから、ここでは親に愛されない子供という、現代的な主題は成り立たないだろう。

 映画の主な部分は、マキシマスが奴隷に売られてから、スペイン人のグラディエーターとして頭角をあらわし、コモドゥスへの復讐までを描く。
オスカーをとっただけあって、大規模なシーンがあり、お金のかかった大型映画になっている。
そして、物語のなかには現代への比喩がちりばめられており、それなりに良くできてはいる。

 しかし、この映画には新たな主張がない。
まず前皇帝が廃止した人間の殺しあいゲームを、コモドゥスがグラディエーターを多用して、ローマ市民に提供するようになる。
コモドゥスの執政には、元老院にも反対者が多い。
前皇帝の遺志に反するコモドゥスの行動の必然性が説明されていない。


 いくらコモドゥスでも、単なる気まぐれでやっているのではないはずで、それなりの政治の方針があったろう。
政治というのは、個人的な悪者と善人との戦いではない。
政治映画は、正しい信念と正しい信念の衝突がみせもので、それがアクション映画との違いである。
政治家は自分の信じる方針でやっている。
失政とは結果としてそれが、現状にあわなかったに過ぎない。
正義と正義のぶつかりあいだから、政治は恐ろしいのである。
信じる者同士のぶつかり合いといった側面が描かれず、この映画は単なる復讐劇に終わっている。
皇帝のまったく個人的な性格の問題というには、コモドゥスの行動の説得力がない。

 マキシマスが復讐のために、グラディエーターをつとめ続け、無敵の戦いをする。
これもちょっとおかしい。
司令官として優秀な人間と、格闘技に優れた人間は必ずしも一致しない。
にもかかわらず、マキシマスは格闘にも無敵である。
このあたりに何の工夫もなく、ちょっと単純すぎる。


 この映画でラッセル・クロウは主演男優賞を取るが、助演ながらコモドゥスをとつとめたホアキン・フェニックスのほうが、はるかに演技は上手かった。
彼は皇帝の孤独さを充分に体現していた。
情報はすべて皇帝のところに集まりながらも、皇帝には誰も本心をいわない。
疑心暗鬼のなかで、皇帝は確信を持った決断と、行動をしなければならない。

 ローマは市民が構成する社会だった。
元老院こそ貴族が占めていたが、その貴族とて市民の意向を無視しては行動できなかった。
そして市民は、殺人ゲームが大好きだった。
そのあたりが、民主主義が衆愚の政治になりやすいといわれ、今日の政治になぞらえる。
しかし、ローマは長年にわたり維持されたのである。
特権的な地位だった皇帝でも、権力が大きければ大きいほど孤独であったろう。
当初、自信満々だったコモドゥスは、姉ルッシラ(コニー・ニールセン)の寝返りを知って落胆する。
姉の裏切りに逆上するのではなく、姉の愛情を失ったと感じるコモドゥス。
愛に飢えているこのあたりは、現代的な解釈であろう。

 自信に満ちたコモドゥスから、狂気に走った最後へと、ホアキン・フェニックスはじつに細かく演技し分けていた。
屈折しているが元気のある前半は、ストレートに力強く行動し、後半は影のある表情に状況からのつよい圧力があることを表現していた。
役者の顔に大きな傷があれば、きわめて不利だろう。
三つ口の跡が残るホアキン・フェニックスだが、演技力があるせいでか大きな役を演じている。
そういった意味でも、アメリカの評価は公平な感じがする。

2000年アメリカ映画

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