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音楽評論家であり、映画監督であるキャメロン・クロウ(映画のなかではウィリアム・ミラーという名前)の、若い時代の自伝的映画である。 1970年代は、まだロックが生きていた。 ロックが人間を解放し、自由にしてくれる、と信じられる空気があった。 そんな時代にウィリアム・ミラー(パトリック・フュジット)は、中学生生活をおくり、ロックにのめり込んだ。 15才の彼は、とある中堅のロック・バンド:スティル・ウォーターの音楽評論をかく。 それがローリングストーンに掲載されるまでを、映画は描いていた。
懐かしい、本当に懐かしい。 あの時代の音楽だけではなく、ファッション、車、そして若者の行動パターンまで、今とはまったく違う。 当時には、何か熱いものがあった。 それがスクリーンから流れだし、しばらくのあいだ時間が戻ったような感じだった。 改めて1970年と確認してみると、なんともう30年も昔のことである。 ずいぶんと長く生きてしまった。 そして、映画のなかで流れるロックを聴いて、ロックはもう確実に死んでしまった、と改めて感じた。 この映画の主人公も、そう感じているだろう。 じゃなければ、伝記映画など作りはしないから。 ウィリアム・ミラーは、ロックに天才的な耳を持った少年だった。 そして、それを天才的に素晴らしい文章に表現した。 彼はまだ15才である。 当初、評論家は敵だといっていたバンドの面々は、ウィリアムの文章に驚嘆する。 そして、彼だけは特別に仲間扱いで、バンドのツアーに同行を許す。 ある程度のバンドには、追っかけの女の子たちがついている。 このバンドも例外ではない。ペニー・レイン(ケイト・ハドソン)という少女を筆頭に、何人かの少女がついていた。 彼女たちは有名人の廻りにあつまるグルーピーの一種で、バンド・メンバーの愛人でもあった。 この映画は、ウィリアム・ミラーの自伝を映画化したので、彼が主人公のように見える。 確かにそれは事実だが、むしろ熱に浮いたあの時代の雰囲気を、作者=監督は描きたかったのだろう。 だから、追っかけの少女ペニー・レインも主人公だし、スティル・ウォーターのギターリストであるラッセル(ビリー・クラダップ)も主人公だといっても良い。 「Almost famous」という原題からでも、それがわかる。 たいがいの映画は、現代や将来に向けてつくられるものである。 しかし、この映画は郷愁だけで作られている。 これはアメリカではきわめて珍しい。 過去を向いたスタンスでの映画作りは、基本的にアメリカでは成立しない。 製作・脚本・監督と、キャメロン・クロウが一人でやったので、可能だったに違いない。 強いて主題を捜すとすれば、ウィリアムのバンド取材に、正直にしかも慈悲心なく、と助言するレスター・バングス(フィリップ・シーモア・ホフマン)の言葉だろう。 ここにはアメリカのジャーナリズムの原則がある。 自分が好きなバンドであればあるほど、正直にしかも厳しく書くのが、ジャーナリストだとレスター・バングスはいう。 たんに迎合的な記事を書くのは、けっして友情を育てない。 自分が感じたことをを、曲げることなく書く。 売らんかなの商業主義に毒されることは、バンドのそして自分の才能をつぶすことだ。 ポーリン・ケイルも「映画辛口案内 私の批評に手加減はない」で、同じことを言っており、この映画もまたそういっている。 しかしわが国には、このスタンスはない。 わが国には、マスコミはあっても、ジャーナリズムがない。 新聞社や放送局の社員はいても、ジャーナリストはいない。 ジャーナリズムとは個人が、自分の価値観を信じるところに生まれるものだ。 わが国では、何が書かれているかではなく、誰が書いたかが重視される。 偉い人や有名な人が書いたものは、ありがたくて素晴らしいもの、と扱われる。 内容ではなく、立場が決め手になる。 これはきわめて前近代的な考え方である。 残念ながら編集者らに、本当の意味での文章を読む力がないのだろう。 自分の目を信じるというのは、実は辛い決断を日々することである。 自分を信じ続けるのは、体力が必要である。 バンドの演奏は、力のあるものではなかった。 かえってそれが良かった。 すでに死んだロックへの鎮魂歌とすれば、映画の中での音楽が、今に力をもって聞こえてはいけない。 今から聞くと、素人臭い演奏にリアリティがある。 1970年代を生きた人間、しかもその頃ロス・アンジェルスにいた人間には、とても懐かしい映画だった。 タクシーだって、当時のフォードだった。 フルサイズの車が、たくさん走っていた。ウィリアムの母親(フランシス・マクドーマンド)の乗っていた、ビュックのステーション・ワゴンなど、今ではもう見ることができない懐かしさだった。 音楽に力がなかったのは良いが、バンド映画としてみると、ちょっと疑問が残る。 スティル・ウォーターというバンドに、バンドとしての実在感が欠けていた。 もちろん、バンドの内部はゴタゴタがあり、外部から見るのとは違って、メンバー間でもすれ違いがあった。 ギターのラッセルが、あとから参加したにもかかわらず、人気を獲得しはじめていた。 だから、前のリーダーはおもしろくない。 それが理由で分裂寸前までいく。 擬家族は仲良くなくてもいい。 たとえ喧嘩していても、何とはない共通の雰囲気をもつものである。 このバンドにはそれがない。 ウィリアム・ミラーとバンドのメンバー、それにグルーピーの少女たちが、同じ距離にいる。 そんなことはありえない。 関係の濃淡の違いというのは、必ず表に出てくる。 良くできたフィクションであるなら、演技として擬家族制を感じさせないと、観客は満足できない。 すぐにこれは嘘だと感じてしまう。 ウィリアムの母親を演じたフランシス・マクドーマンドは実に上手い演技である。 何気ない雰囲気が自然のうちに醸し出されて、彼女の演技にはいつも感心させられる。 また、レスター・バングスを演じたフィリップ・シーモア・ホフマンが、痩せていて別人かと思ったほどである。 「マグノリア」の時は、ずいぶん肥っていたが、痩せたり肥ったり俳優稼業も大変である。 この映画は、ペニー・レインがモロッコに出発するところで終わるが、モロッコも当時の憧れの地だったことを思い出した。 「Almost famous」の原題でみると、映画の内容がよくつながっている。 しかし邦題では、何を主張したかったのか、判らなくなってしまった。 2000年のアメリカ映画 |
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