タクミシネマ              ダンサー・イン・ザ・ダーク

ダンサー イン ザ ダーク    ラース・フォン・トリアー監督

 この映画は、2000年のカンヌ映画祭でパルムドール(最高賞)を獲得したが、あまりにもひどい内容に途中で退場したくなった。
セピア調の画面に、知的障害をもった母親の行動場面が延々と続き、ところどころにミュージカルが入る。
好意的に見ると、知的障害の母親物と言えなくもない。
しかしもちろん監督は、この映画を知的障害の母親物と考えていないだろう。
とにかく知的障害者と考えなければ、主人公である母親セルマ(ビョーク)の言動は理解できないのである。

ダンサー・イン・ザ・ダーク [DVD]
 
劇場パンフレットから

 チェコから移民してきたセルマは、徐々に目が見えなくなる病気だった。
伴侶のいない彼女は、誰にでも好かれる性格で、仕事も一生懸命にしていた。
警察官夫婦の庭のトレーラーハウスに住み、ミュージカルが好きでアマチュア演劇の舞台にたつため、練習にも励んでいた。

 彼女には溺愛する一人息子がいたが、彼も彼女と同じようにやがて失明する運命だった。
しかし、手術によって失明が回避できることを知った彼女は、必死になって手術費を貯める。
貯金の目的は母国に残した父親への送金だといって、貯金していることを子供に隠している。

 警察官のビル(デビッド・モース)に、貯めていたお金を盗まれたことから、運命は一変する。
犯人はビルだと察したセルマは、ビルにお金を返してもらいに行く。
ビルともみ合いになるうちビルの拳銃が暴発し、ビルの太股にあたってしまう。

 奥さんの浪費癖からビルは大きな借金を負っており、自殺願望があったため、殺してくれとセルマに頼む。
彼女はそれを受け入れてビルを射殺してしまう。
そのうえ金属製の引き出しで、ビルの頭をめった打ちにする残酷さを発揮するが、自首もしない悔悟の念にもさいなまれない。
もちろん殺人罪で逮捕される。
公判で事件の顛末を語らないので、彼女は死刑になって映画が終わる。


 失明するセルマの運命に同情はするが、この映画は彼女の独りよがりな妄想を、失明によって正当化しているに過ぎない。
失明するのは遺伝であり、子供にそれがでると判っていながら、彼女は赤ちゃんを抱きたいという理由だけで子供を出産する。
これを子供への虐待だと非難するのは差し控えるが、物語の展開は盲目の全否定を感じさせる。
失明を防ぐ手術のために貯金するのは当然としても、その後の彼女の行動は失明することが、全人格の否定だと考えているとしか思えない。
盲目であっても人生はあり、盲目は不便であり限定される生活かもしれないが、盲人にも楽しい人生はある。
それは盲人が一人でいることではなく、健常者と一緒に生活することである。

 同僚のキャシー(カトリーヌ・ドヌーブ)や、恋人志願のジェフ(ピーター・ストーメア)などは、セルマを影になり日向になり助けてくれる。
しかし、彼女はジェフの誘いを頑強に拒否する。彼女は好意をもらうだけで、自分から彼等との関係をつくろとはしない。
彼女の人間関係の作り方は実に冷たい。
殺人は事故だったと、友人たちが再審に奔走してくれても、彼女は子供への手術を誕生日にプレゼントすることしか頭にない。
まわりの人たちの好意をすべて無視して、彼女は自分の信じる信条に殉じて死んでいく。
本人は信じる行動に従ったのだから良いかも知れないが、あれでは残された子供も友人たちもやりきれない。


 この映画には、母親の独善的な子供への拘束的な愛情があり、それがすべてでできあがっている。
母親が子供から受ける愛情は無視されている。
子供を産んだのは母親かもしれないが、子供を育てるという喜びを子供から与えられたのだ。
人間は相互関係のなかで生きるものである。
相互関係という視点が決定的に欠けており、自己の信条だけを開陳すれば、それは一種の宗教映画である。
自己の信条がいかに美しくても、それを肯定し他者との関係に目をつぶれば、それはファシズムである。
ラース・フォン・トリアー監督は「奇跡の海」でも、狂信的な信条を正当化していたが、この映画でも他者が見えない危険な愛情を美化している。

 セルマの失明と、ビルの殺人は別の事件であり、両者を同じレベルで語ることはできない。
盲目の人が殺人者ではない。
殺人はセルマの精神がなさせたことであり、盲目がなさせたことではない。
極端にいえば、盲目でなくてもまた子供が盲目にならなくても、お金を盗まれれば彼女は殺人をしたかもしれない。
ところが、この監督は次元の異なる問題を、すべて一列にならべてしまっている。
こうした問題設定では、どれか一つを選ばざるを得ず、どんな問題であっても常に狂信的な宗教にならざるをえない。
しかも狂信的な母性をもちだすことで、他者の批判を削いでしまう。
実に卑怯な主題の扱い方である。

 カンヌで受賞したときいたときから、嫌な予感がしていた。
こうした作品がカンヌで受賞し続けることは、カンヌの体質をよく物語っている。
いまやカンヌで賞賛されることは、駄目な映画だと烙印を押されたことと同じである。
この映画に見られるように、イギリスを除くヨーロッパの落日は凄まじく、しばらくの間、ヨーロッパ大陸諸国からは新たな文化は現れないだろう。
ヨーロッパ大陸諸国は今までの遺産を食い潰していくに違いない。
ヨーロッパ大陸諸国人の個別的な動きはともかく、評価するシステムが崩壊してしまったのだ。

 映画はのろい展開ながら、セルマを演じたビョークの歌声は伸びもあり、ゆったりしている。
音楽的な部分は土着的で肉声的で、大きなふくらみがある。
ただし、演技は学芸会のようで、すさまじく下手だった。
また、列車の上での群舞のシーンなど、音楽が絡む部分には見るべきものがあったが、とにかく主題がめちゃくちゃだった。
ミュージカルを取り入れるのは良いとしても、ミュージカル自体がアメリカのものであり、ヨーロッパの監督が使うのはちょっと馴染めない。
この映画がミュージカルを使う必然性を感じないのである。
そのうえ、ミュージカルという形式自体が、すでに時代遅れになっており、インパクトを感じられなくなっている。
蛇足ながら、冒頭の音楽だけの3分30秒は不要である。

2000年のデンマーク映画

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