タクミシネマ       オール・アバウト・マイ・マザー

オール アバウト マイ マザー
 
ペドロ・アルモドバル監督

 スペインのマドリッドでの話。
非婚の母マヌエラ(セシリア・ロス)が、一人で子育てをしてきた。
母1人子1人で、良くできた息子エステバンは文学志向だった。
彼は舞台に憧れ、17歳の誕生日に舞台女優ウマ・ロッホ(マリサ・パレデス)のサインをもらおうとして、車にはねられて死亡した。
彼女はマドリッドには住み続けられないと、若いときに過ごしたバルセロナへと向かう。
オール・アバウト・マイ・マザー [DVD]
 
劇場パンフレットから(中央下はペドロ・アルモドバル監督)

 バルセロナではかつての友だちアグラード(アントニア・サン・ファン)と再会し、不思議な人間関係が始まる。
アグラードは男性だが、豊胸手術をうけて女装していた。
男性器がありながら、女性以上に豊満な胸という不思議な存在だったが、とても優しい人間で、よく人の心の機微が判った。
彼との絡みで若い修道女ロサ(ペネロペ・クルス)に会う。
なんとその修道女は、マヌエラの元恋人ロラの子供を妊娠していた。
しかも、元恋人も豊胸手術をした男性で、多くの女性と性交したので、エイズ感染者だった。
当然に修道女もエイズの保菌者となってしまう。

 不思議なことに、エステバンが憧れた女優の劇団がバルセロナへ来ており、マヌエラは女優の付き人になる。
この映画は世界中で多くの賞を取り、アカデミー賞でも最優秀外国映画賞を取っているので、悪く書きたくはないが、偶然の積み重ねに終始し、物語としての必然性がほとんどない。
女性とはそうしたものだ、と言ってしまえばそれまでだが、女性が自分の頭で考え自分のキャリアを積み重ねようとする指向性は皆無である。
このあたりは年老いた男性の作品だと、伺わせるところだ。

 妊娠してしまった女性。
相手の男性に生まれた子供を知らせない。
1人で生んで、1人で育てる。
マヌエラもそうだし、若い修道女ロサも同じことをしている。
この限りでは男性は精子の提供者に過ぎないが、彼女たちは男性を精子の提供者とドライに見てはいない。
裕福な修道女の母親は、ぼけてしまった夫の面倒を見ているが、娘とは意志が伝わっていない。
にもかかわらず、娘が妊娠すると親子の縁が回復される。
異常妊娠だったらしく、修道女は子供を残して出産のときに死んでしまう。
肉体のメカニズムのままに生活する女性たち、そして肉体の仕組みどうりに死んでいく女性たち。
古い古いウーマンリブの化石である。 

 この映画は、女性であることに立脚点をおき、女性の自己存在を無前提的に肯定している。
確かに豊胸手術をした男性をも、同類として受け入れるが、ここには時代や同胞たちの生活を向上させようと意志はない。
自然をあるがままに受け入れ、自分の身体で消化していくだけである。


 男性監督であるためか、ウーマンリブがやった男性攻撃は、さすがに見えないが、この映画は子供を産むことに女性たちの存在意義をおく。
これは仕方ないことではあるが、後進性が明白である。
今まで女性は頭で考えてこなかった。
だから、子供を産むことを取り除いたときに、男性に拮抗する女性の存在意義を謳うことができない。
女性には思想がないという事実を確認することからしか、女性は出発できないのだと言っているようだ。 男性監督が描く女性映画だが、女性監督ならもはやこうした映画は撮らないだろう。
今や女性たちも、妊娠・出産といった種の保存への貢献だけではなく、男性とまったく同様な地平でものを考え、行動するようになった。

 スペインという遅れた地域の男性監督が、女性への讃歌として女性に好意を持って描く映画が、結果として女性をからだのメカニズム的存在へと位置づけてしまう。
わが国を含めて途上国の、女性たちには歓迎されるだろう映画だが、先端的なところで活動する女性には、うんざりさせられる映画だろう。
女性に好意を持つ男性監督の目が、結果としては女性に残酷な映画を作り上げてしまっている。


 母を謳うことは、同時に父を謳うことであり、人間を役割に還元する視点なのだ。
役割への還元は、年齢や性別といった属性への還元である。
生物が世代をもっている限り、父や母なる存在は必ず存在するが、そうした役割から離れてものを考えるところにこそ、人間が人間として自立する道があるのである。
この映画は、女性の出発を確認したウーマンリブものと見なすべきだろう。
中南米人が多く出演しているが、スペインを始めラテン諸国は本当に遅れてしまった。
このままだと、カソリックがいまだに大きな勢力を張る中南米は、これからますます貧富の差が開くのではないだろうか。

 情報社会での貧富の差が拡大する話と、ラテン諸国の貧富の差の話は、まったく次元が異なっている。
情報社会では、一応の社会福祉が成り立っており、生活困窮者の家にも文化の成果物がある。
しかし、ラテン諸国ではちょっと事情が違うのだ。
単館上映に近い上映形態で、整理券が出され大入りだった。
それにしても戸惑う映画だった。
身体のメカニズム讃歌といった映画が、女性の共感を得なくなる日が来るのを祈っている。

1999年のスペイン映画。


TAKUMI シネマ>のおすすめ映画
2009年−私の中のあなたフロスト/ニクソン
2008年−ダーク ナイトバンテージ・ポイント
2007年−告発のときそれでもボクはやってない
2006年−家族の誕生V フォー・ヴァンデッタ
2005年−シリアナ
2004年−アイ、 ロボットヴェラ・ドレイクミリオンダラー ベイビィ
2003年−オールド・ボーイ16歳の合衆国
2002年−エデンより彼方にシカゴしあわせな孤独ホワイト オランダーフォーン・ブース
      マイノリティ リポート
2001年−ゴースト ワールド少林サッカー
2000年−アメリカン サイコ鬼が来た!ガールファイトクイルズ
1999年−アメリカン ビューティ暗い日曜日ツインフォールズアイダホファイト クラブ
      マトリックスマルコヴィッチの穴
1998年−イフ オンリーイースト・ウエストザ トゥルーマン ショーハピネス
1997年−オープン ユア アイズグッド ウィル ハンティングクワトロ ディアス
      チェイシング エイミーフェイクヘンリー・フールラリー フリント
1996年−この森で、天使はバスを降りたジャックバードケージもののけ姫
1995年以前−ゲット ショーティシャインセヴントントンの夏休みミュート ウィットネス
      リーヴィング ラスヴェガス

「タクミ シネマ」のトップに戻る