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スペインのマドリッドでの話。 非婚の母マヌエラ(セシリア・ロス)が、一人で子育てをしてきた。 母1人子1人で、良くできた息子エステバンは文学志向だった。 彼は舞台に憧れ、17歳の誕生日に舞台女優ウマ・ロッホ(マリサ・パレデス)のサインをもらおうとして、車にはねられて死亡した。 彼女はマドリッドには住み続けられないと、若いときに過ごしたバルセロナへと向かう。
バルセロナではかつての友だちアグラード(アントニア・サン・ファン)と再会し、不思議な人間関係が始まる。 不思議なことに、エステバンが憧れた女優の劇団がバルセロナへ来ており、マヌエラは女優の付き人になる。 相手の男性に生まれた子供を知らせない。 1人で生んで、1人で育てる。 マヌエラもそうだし、若い修道女ロサも同じことをしている。 この限りでは男性は精子の提供者に過ぎないが、彼女たちは男性を精子の提供者とドライに見てはいない。 裕福な修道女の母親は、ぼけてしまった夫の面倒を見ているが、娘とは意志が伝わっていない。 にもかかわらず、娘が妊娠すると親子の縁が回復される。 異常妊娠だったらしく、修道女は子供を残して出産のときに死んでしまう。 肉体のメカニズムのままに生活する女性たち、そして肉体の仕組みどうりに死んでいく女性たち。 古い古いウーマンリブの化石である。 この映画は、女性であることに立脚点をおき、女性の自己存在を無前提的に肯定している。 確かに豊胸手術をした男性をも、同類として受け入れるが、ここには時代や同胞たちの生活を向上させようと意志はない。 自然をあるがままに受け入れ、自分の身体で消化していくだけである。 男性監督であるためか、ウーマンリブがやった男性攻撃は、さすがに見えないが、この映画は子供を産むことに女性たちの存在意義をおく。 これは仕方ないことではあるが、後進性が明白である。 今まで女性は頭で考えてこなかった。 だから、子供を産むことを取り除いたときに、男性に拮抗する女性の存在意義を謳うことができない。 女性には思想がないという事実を確認することからしか、女性は出発できないのだと言っているようだ。 男性監督が描く女性映画だが、女性監督ならもはやこうした映画は撮らないだろう。 今や女性たちも、妊娠・出産といった種の保存への貢献だけではなく、男性とまったく同様な地平でものを考え、行動するようになった。 スペインという遅れた地域の男性監督が、女性への讃歌として女性に好意を持って描く映画が、結果として女性をからだのメカニズム的存在へと位置づけてしまう。 わが国を含めて途上国の、女性たちには歓迎されるだろう映画だが、先端的なところで活動する女性には、うんざりさせられる映画だろう。 女性に好意を持つ男性監督の目が、結果としては女性に残酷な映画を作り上げてしまっている。 母を謳うことは、同時に父を謳うことであり、人間を役割に還元する視点なのだ。 情報社会での貧富の差が拡大する話と、ラテン諸国の貧富の差の話は、まったく次元が異なっている。 1999年のスペイン映画。 | |||||||||
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