タクミシネマ        マーシャル・ロー

 マーシャル ロー    エドワード・ズウィック監督

 悪の帝国ソ連が崩壊したあと、アメリカにとって秩序の破壊者は、アラブ諸国になってしまった。
なかでもイラク、ヨルダン、レバノンやシリアは、テロリストの擁護国であり、イスラムに名を借りた犯罪国家であるという認識が広まっている。
この映画も、イラクのテロリストが問題の鍵を握っている。
マーシャル・ロー [DVD]
劇場パンフレットから

 世界中に点在するアメリカの利権を守るため世界の警察官として、地球上の至るところに自国民や軍隊を展開するアメリカは、同時に世界各地で紛争の当事者になっている。
とりわけ、ソ連が強大な国としてあった頃、途上国に軍事援助や資金援助したりして、対ソ連の反共軍事網を築こうとしてきた。

 しかし、ソ連が崩壊した今、そうした援助は打ち切られ、訓練を受けた部分は自力で活動を始めた。
他の国でも、アメリカは反体制派に援助を始めながら途中でやめてしまうことが多かった。
そのため、体制派の巻き返しにあって、反体制派はかえって酷い弾圧を受けるようにさえなった。

 イラクだけをとってみても、アメリカの大統領はサダム懲罰に動いたときから変わっているが、サダムはいまだに健在である。
大統領が替われば、アメリカの政策は当然変わるだろうし、サダムが健在であるということは、反体制派はやはり弾圧を受けているということである。

 アメリカは中南米では、傀儡政権の樹立に成功しているので、世界中でこの手法が通用すると思っているようだ。
とくに、アメリカの軍隊は、陸軍だけもしくは海軍だけでも圧倒的に強大で、ちょっとした国の全軍隊よりはるかに大きい。
また、CIAだって小国の軍隊くらいの力はある。
そのうえ、大統領の文民統制を逸脱して、各機関が勝手に動いてしまう。
だから紛争が絶えない。

 この映画では、陸軍が大統領に内緒で、イスラムの指導者を誘拐したことがアメリカでのテロに繋がったとしている。
原因はどうであれ、テロ特にアメリカ国内のテロは絶対に許さないと、FBIが捜査に立ち上がる。
その部長アンソニー・ハバード(デンゼル・ワシントン)を主人公に映画は進む。
アメリカ人に教育・訓練されたテロリストは細胞状に繁殖し、ニューヨークのアラブ人社会に潜り込んでいる。
バス・ジャック爆破犯は壊滅できたが、次々に事件が起きる。
ニューヨークの政府ビルが爆破され、600人が殺されたテロに対して、アメリカ政府はニューヨーク市に戒厳令をしく。
しかし、警察機関であるfbiの捜査と違って、軍の捜査はきめがあらく、むしろ鶏を割くのに牛刀を用いる例えのままに、過剰な警備体制はむしろ反発だけを招く。

 この映画は、アメリカにおける安全保障の困惑を赤裸々に描いており、CIAが失敗ばかりしてきたこと、軍の仕事が必ずしも成功はしていないこと。
組織が大きくなれば、動脈硬化をおこし、組織の暴走が始まることなど、実に正直に描いていた。
軍の代表はウィリアム・ダウロー将軍(ブルース・ウィリス)であり、CIAの代表は、女性エージェントのエリース・クラフト(アネット・ベニング)である。
アネット・ベニングの演じたエリースには、CIAの秘密活動に従事する人間の歪みや、落ちていくCIAへの後悔が、上手くでていた。諜報活動は人間性を歪める。
戒厳令をしいたが、結局、事件は軍の力によってではなく、fbiという警察力によって解決する。
その過程で現出する事件には、大いに考えさせられた。

 アラブ人をテロリストと一括りにするが、アメリカにはまっとうに生活しているアラブ人が大勢いる。
それを代表するのは、アンソニーの同僚のfbi捜査官フランク(トニー・シャルホウブ)である。
彼に限らずアラブ人一般はテロリストではなく、普通の人である。
にもかかわらずアラブ人をテロリストとみなすことは、個人を尊重する民主主義の根幹を揺らしかねない。
民族や身分といった属性を、判断基準にしてはいけないにもかかわらず、アラブ側が民族=宗教として登場すれば、アメリカ側も民族問題ととらえがちになる。
それは民族問題へと発展せざるを得ないからだ。
属性による人間の判断が軍の対応だったし、農耕社会や工業社会の残滓を引きずる人たちには、通りがいい見方である。

 軍が独走して、イスラムの指導者を誘拐したこと、また目的のためには手段を選ばずとばかりに容疑者を拷問にかけること。
こうしたことは決して犯罪の撲滅にはつながらないとは、歴史的に明らかになっているにもかかわらず、国対国の軍事作戦では肯定されやすい。
しかし、最後にこの映画では、独裁的な権力を握った軍の将軍に対して、FBIが逮捕する。
国家・軍それに警察といった権力が錯綜する構造は、権力を分散させる近代国家のものである。
警察官を監察する人間が警察官であるわが国では、権力の分散は決して理解されることはないだろう。
権力の分散には、人権の何たるかがある。

 一見すると、あやふやで頼りなげに見える法の支配こそ、もっとも堅固で安全なものである。
力と力のぶつかり合いになったことが我々の負けだとか、逮捕の瞬間に、将軍に対して黙秘権や拷問されない権利があるというシーンは、近代が何を獲得してきたかがよく判る。
どんなに迂遠に見えようとも、力に対峙するのは論理や理性であるべきで、力ではない。
力と力のぶつかり合いになったら、近代の否定なのである。
それはつまり近代の負けである。

 まじめに考えて作られた映画で、先端的な政治状況を真摯に描いている。
これからますます三つの社会の確執が激しくなるだろうが、宗教の復活といった旧へ帰る方向は考えられず、政宗分離や法の支配を確認しなければならない。
宗教が生きているイスラム社会が優れているという意見もあるが、近代人は宗教支配の社会には住めない。
イスラム社会から科学的な発想が生まれることは絶対にない。
それをまず確認した上で、いかなる社会を構築するかを考えるべきである。

 アメリカ民主主義の教科書を見ているような映画である。
この映画だけを見ても、アメリカ社会が個人という人間を大切に考えており、もっとも進んだ社会だということが判る。
問題はアメリカが近代社会の倫理、たとえば人権を大切にすることなどを、前近代的な国家に押しつけることだろう。
アメリカは近代社会として生まれた国であるがゆえに、前近代社会の何たるかを理解していない。
前近代国家には人権概念など、入り込みようがないのだ。
人権意識が成立しないから、前近代国家では科学が生まれず、国力が弱いのである。
この限りでは、近代の国民国家という限界から、アメリカも抜け出せていない。

 原題は「The Siege」という意味深長なものだが、「マーシャル ロー」という題名は、良い意訳だと思う。
星二つを献上しようと迷ったが、あまりにも真面目すぎて表現としての驚きに物足りなさを感じるので、星一つにとどめる。

1998年のアメリカ映画


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