メキシコとスペインの合作映画で、日本ではヘラルドが配給しているので、マイナーな映画ではないと思う。
しかし、個人が作った実験的な映画のようで、よく判らない映画だった。
どんな映画でも、その映画を通じて訴えたい主題がある。
それは個人的なものだったり、人類愛だったりと何でも良いが、とにかく主題をめぐって物語は展開するはずである。
この映画の主題は、セックスと暴力もしくは殺人だろうが、この映画で展開される程度の話はとっくに終わっている。
新たな映画は、何か新たな主張をもたらしてくれないと無意味である。
主人公ペルディータ・ドゥランゴ(ロージー・ペレス)の家族は、全員が狂った父親に殺され、彼女だけが残ったという説明はある。
しかし、職業や生活など一切不明のまま。
彼女はセックスと暴力に、限りない魅力を感じている女性と設定されている。
その彼女が、男を拾うことから話は始まる。
拾った相手が、ロメオ・ドロローサ(ハビエル・バルデム)という悪者で、銀行強盗や呪術を職業としている。
いつもは墓場から盗んできた死体から、心臓をとりだして食べるショーをやっているが、本当に生きた人間から心臓を取り出すショーをしようと、ペルディータから持ちかけられる。
そのため、二人は金髪の少年・少女を誘拐してくる。
童貞と処女である高校生の彼等を、それぞれ強姦し性的にいたぶる。
そして舞台に上げるが、ショーの直前に小屋に火が放たれて、観客もろとも脱出することになる。
その後、マフィアの手下になった従兄弟との約束によって、冷凍保存した胎児を化粧品の材料とするべく、運び屋をつとめる。
ロメオは麻薬犯罪者としても追われており、今度はそれに誘拐まで加わった。
最後には仲間内の裏切りによってロメオは殺されるが、ロメオを愛していたペルディータは茫然として見送るところで映画は終わる。
話の展開としてもご都合主義的で、おおざっぱな映画だが、セックスと暴力という主題がもう古い。
セックスが肉体的な快感をもたらし、それを求めて限りなくセックスを続けるというのなら、まだ理解できなくはない。
しかし、それは不可能な話だ。
男性はもちろん女性だって、起きている間中セックスをしているわけにはいかない。
麻薬などとは違って性的な快感は、短時間しか味わえないものだ。
特に男性が射精してしまえば、その快復には時間がかかる。
勃起しなければセックスは不可能である。
性の快感は永続性がないため、肉体的な性の快感ではなく、性にまつわる観念の快感へと移行するのは必然である。
だから、他人のセックスを覗いたり、異常な状態を楽しむことになる。
肉体という直接性から離れ、「フェティッシュ」で展開されたとおり観念へと収斂していく。
この映画は直接性から脱していない。
肉体における快感は、いかなる種類のものであれ、究極的には脳を走る信号なのだ。
だから、直接的な快感と観念の快感はそれほど違うものではない。
これが情報社会での、快感のあり方の確認である。
とすれば、この映画が見せる世界は、農耕社会的な肉体と肉体がぶつかり合うものでしかなく、何を快感と感じるかという本質的なところまでは届いてはいない。
もう一つの主題であろう暴力に関しても同様で、映画の中では簡単に人殺しをしているが、肉体的に殺すことと観念が殺すことは違う次元のことである。
殺すことを観念が快感とする次元で、すべての快感は同じになるのである。
にもかかわらず、この映画では簡単に殺人が行われながら、誘拐してきた少年と少女は殺していない。
セックスと暴力が、しばしば映画の主題になるが、当事者が合意の上でするセックスは悪いものではない。
可能であれば24時間セックスをし続けても、また相手を次々と替えてセックスしても、いっこうにかまわない。
にもかかわらず、なぜセックスを楽しむことにこれほどまでに、目くじらを立てるのだろうか。
セックスは悪いことだという倫理観がどこかにあるように感じる。
セックスが人間関係の保証、つまり最後の拠り所だという、まったく根拠のない思いがある。
それは「チェイシング・エイミー」で否定されたではないか。
この映画の性に対する感覚は、極め付きの男性サイドのものだ。
そうした意味では、メキシコやスペインはまだ遅れており、近代のまっただ中にいるのかも知れない。
小柄なロージー・ペレスは、相変わらずの素晴らしいプロポーションで魅力的だが、キンキン声なうえに英語の訛りがひどくて、毎度のことながらちょっと考え物である。
何台も車がこわれたり、家が焼けたり、とてもお金がかかっており、しかも、そこそこに有名な人たちが出ているが、訳の判らない映画だった。
1997年のメキシコ、スペインの合作映画。
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