タクミシネマ                  サバイビング ピカソ

 サバイビング ピカソ   ジェームズ・アイボリー監督 

 ピカソを女性関係から見た映画で、とりわけフランソワーズ(ナターシャ・マイケルホーン)という女性に焦点をあてて、作られている。
1943年、ナチ占領下のパリに住んでいたピカソは、すでに世界的に有名な画家だった。
SURVIVING_PICASSO
劇場パンフレットから

 結婚や同棲した女性をはじめ、若い頃から何人もの女性と関係があり、彼の女性遍歴は有名だった。
そこへ新たに、20才そこそこの女性フランソワーズが登場し、ピカソはたちまち惚れ込んでしまう。
父親の反対を押し切って、彼女はピカソと同棲を始める。

 表現とは新たな価値を作る行為であり、ほんらい神の仕事である。
新たな価値は、現在の社会のそれとは異なったものであるがゆえに新しい。
現在の価値観から新たなものを評価することはできない。
表現に従事する人間には、正常とか異常といった世俗の人間の価値基準が通じない。

 表現とは恐ろしい世界である。
横並びで始まったピカソとフランソワーズの男女関係も、片方が表現にのめり込んでいくに従って、横並びのままではおかなくなる。
表現とは、神に代わって価値を創造する行為だから、先鋭化していけば自然と神に近づくことになる。
二人が同時に先鋭化していくことはありえず、才能のあるほうが必ず突出する。
そこでは横並びがくずれ、上下関係へと変質していく。

 神に鍛えられた者は男性が多いから、今日なら二人の表現者の関係は、ゲイという男性同士になることが多いだろう。
けれどもピカソの時代は、異性指向のほうが強かった。
当時は、女性は生活者として生き、神とは遠かったので、表現の才能を開花できなかった。
男性しか表現に位置できなかった。
ピカソも、もちろん男性である。

 一人の男性は、生涯一人の女性だけを愛し続けなければならないという世俗の倫理は、表現の世界では意味がない。
表現を司る神には、自分を縛る倫理や道徳など存在するはずはなく、表現者は全智全能である。
新しい価値を創るのだから、表現者は自らの心の赴くままに行動してよい。

 ピカソは生前から世界的な名声をかちえたが、世俗的な評価と表現の質とは関係ない。
表現者の世俗的な成功は結果に過ぎず、表現の質とはまったく関係ない。
優れた表現者とは、世俗の目から見れば、少なからず狂気を秘めている。

 表現者の才能にあこれた女性は表現者ではない。
だから彼女は、世俗的な男女関係を求め続ける。
そこでは表現者の才能がかつか、世俗の論理がかつかの攻めぎあいであり、その間に妥協はない。
表現者が妥協すれば、彼の才能はそこで終わって、もはや画家でも詩人でもない唯の人である。
彼は、幸福な家庭生活を入手する代わりに、絵筆やペンを捨てて、すぐさま職捜しに走らねばならない。

 表現者が世俗の論理に妥協しなければ、道は二つに一つ。
表現者が神の奴隷であるように、女性は表現者の奴隷になるか、同棲を解消するかである。
多くの女性は、表現の世界の恐ろしさが判らないから、同棲しながら奴隷になることを拒む。
表現者とその才能を愛するのではなく、彼に自分を愛せと要求する。

 この選択は、表現者の才能をついばむことだが、生活者である女性にはそれが判らない。
また反対からみれば、この選択をした女性との同棲が解消できない表現者は、その程度の才能だったのであり、孤高の神に近づこうとした一流の表現者ではなかったのだ。

 孤高な狂気であることが表現者の別称であるといっても良い。
表現者が先鋭化しながら、女性が奴隷にならない同棲を選択すると、そこでは女性の精神が崩壊する。
表現者と世俗の人間関係を維持しようとすれば、女性は精神異常になるしか道はない。
両者を選択することは、元来が無理である。
女性が誠実であればあるほど、二人の関係は悲劇的な結末にならざるを得ない。
ピカソも何人もの女性を、悲劇的な状態に追い込んだ。

 フランソワーズも悲劇的な女性で終わるところだった。
しかし、彼女は他の女性とは違っていた。
彼女自身も表現者たらんとしていたことが、他の女性と違ったのである。
彼女がピカソの子供を何人生もうとも、それはここでは全く意味をなさない。

 表現という神の前には、男性も女性もない。
ピカソは欠陥だらけの人間だが、偉大な表現者ピカソと10年にわたって同棲し、彼女は表現とは如何なるものかをつぶさに教えられた。
それゆえ彼女は、ピカソに心から感謝をして別れていく。

 後年、彼女は子供ためにピカソ相手に訴訟を起こすが、それはこの感謝とはまた別の次元のことである。
訴訟を起こしたからといって、ここで示した彼女の感謝がいささかも減るわけではない。
表現と生活の位相の違いが、明確に自覚されており、映画制作者たちのシャープな知性を知らされた。

 時代は女性のインテリを、女性の表現者を許容するようになった。
初期工業社会までは、誰も表現を指向する女性の協力者にならず、フランソワーズの選択は不可能だった。
彼女の叔母が、どんな状態になろうともフランソワーズを愛し続けると言った。

 フランソワーズは叔母からの支援によって、生活を成り立たせ、世俗の論理から離脱できた。
娘が父親の反対を押し切れる、ここが新たな時代だった。
女性の経済的な自立が、女性にも恋愛することを可能にした。
こうして少しづつ男の世界へと、女性が参入してきた。

 アンソニー・ホプキンズ演じるピカソは、実物のピカソそっくり。
役者ながら上手く変わるものである。
しかし、演技は大時代的で固い。
ヨーロッパ人ばかり登場していながら、全て英語だったのが不思議だったし、その英語にスペイン訛・ロシア訛があるのもおかしかった。
原題は「Surviving Picasso」で、ジェームズ・アイボリー監督の撮った表現を巡る新しい時代の映画である。 1996年アメリカ映画。


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