タクミシネマ           宣告

 宣 告     ジャンニ・アメリオ監督 

 第二次世界大戦前のイタリアで、死刑反対を貫こうとするパレルモ地裁の判事の話しである。
ファッシズムが台頭しつつある世の中では、重罪を犯した犯罪者に対して、あげて死刑執行が要求されている。
この映画の犯人も、判事が頑張ったので地裁では、死刑にはならないが、結局は高裁で死刑となってしまう。

 ムッソリーニに協力するつもりで、上司に取り入っていた会計係の男が解雇される。
上司の指示で不正経理を続け、しかも自分の奥さんが上司と密通していた。
そのため、解雇されるわけはないと信じていたが、ある日突然に解雇される。
それを恨んで、上司と自分の職を奪った同僚、それに自分の奥さんを殺す。
三人も殺しているので、当時の刑法では死刑になるのは不可避なのだが、主人公の判事がなんとか死刑にしないように動く。

 映画は、裁判の場面を中心に展開していく。
犯人は、自ら望んで死刑になることによって、悪のはびこる世の中に、警鐘を鳴らそうとする。
しかし、慎重な判事の法廷指揮から、犯人の動機や事件の複雑な背景が、徐々に明らかになる。
判事の家庭環境や親戚関係などを交えながら、落ちついた語り口で映画はすすむ。
イタリアも陪審制度をとっているが、アメリカのそれとは少し違い、法廷外の別室で陪審員と判事のやりとりがある。
もちろん判事は、裁判所外では法の定めにしたがって、裁判中は関係者と距離をとる。

 第二次世界大戦直前、イタリアはフッシズムにおおわれ始めている。
人の命よりイデオロギーが幅をきかせはじめ、不穏な空気が流れている。
主人公の判事に対して、好意から善意でまた強圧的に、様々な圧力がかかり始める。
そうしたなかで、判事は法の形式合理性を重んじることによって、なんとか死刑にさせないように苦心する。

 ところで、時代が風雲急を告げ始めたとき、信条の実現のために、人は何によりどころを求めるのだろうか。
それはイデオロギーではなく、決められた手続きを踏むという、英米法的な形式合理性なのかもしれない。
超法規的な措置がまかり通るわが国では、法治という概念が未成立なのだろう。

 押さえた演出のなかで、美しい映像が展開し、落ちついたなかで死刑反対が考えられる。
陪審員が再考を求めて、地裁では死刑にはならないが、そこの論理がわかりにくかった。
ドストエフスキーの小説が重要な鍵となっているが、もう少し説明して欲しかった。

 陪審員のなかに死刑反対の人物がおり、裁判が終わった後、判事と親友になる。
判事と陪審員の志を同じくする連帯感が、実によく伝わってきた。
当時のエリートが、どれだけものを考えていたか。
そして、それがどれだけ孤独な作業だったかよく判る。
生活に追われている貧乏人には、ものを考える時間などあるはずがない。

 知識階級とは、大学の教員などではなく、裕福な地主のなかにいた。
君子の交わりは淡水の如し、というが本当にそうである。
二人の大人(たいじん)の後ろ姿が、畑の向こうに消えていくラストシーンは、自然の豊かな収穫物と、知に頭を垂れる者の豊かさが重なって印象的だった。
知的なエリートでもある大人は、もうでてこないのかも知れない。

 イタリアもパレルモまで来ると工業化が遅れていたので、農耕社会の生活倫理が支配していた。
古くから伝わる立派な建物、規律のとれた生活習慣、パレルモは裕福な社会だったことがうかがえる。
地主以外の人々は、貧乏な農民として生活せざるを得なかったのだが、農耕社会では、地主とそれ以外の人々との間には知的にも大きな差があった。

 貧乏な農民からの搾取の上にできたのだろうが、長年かけて築いた社会的な財産としての建築には、憧目させられる。
現代は、たった50年前の第二次世界大戦以前と、まるで違ってしまった。
おそらく、あの建物にも、もっとたくさんの人が住んでいるに違いない。
そして、工業社会のギスギスした空気が支配しているのだろう。

 アメリカでは、O・J・シンプソン事件などで、陪審制度が揺らいでいる時、イタリアでは地道に人間愛が語られている。
決して派手ではないけれど、主張をもった映画で好感がもてた。
しかし残念ながら、この映画は農耕社会的な人間愛から脱しておらず、先進工業国での犯罪には、この論理では届かない。
情報社会では、今までのモチーフが、行動の動機にならないのである。
情報社会への入り口で、価値観を再構築することが必要である。

 わが国の多くの映画のように、時代の空気と同調するだけの製作態度は、結局何も生まない。
表現者が自分の主張を展開する事によって、始めて会話がなりたつ。
この映画ように制作者たちの主張の展開は、押しつけがましいとは限らない。
同じ主題を扱ったアメリカ映画に「デッド マン ウォーキング」がある。
1990年イタリア映画。


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